第六章〜Kiss Twice〜
カイとサクが、“雪の女王”と接触している間、静寂に包まれている聖堂内では、小さな変化が起こっていた。
物言わぬ氷像と化していたソルが、意識を取り戻したのだ。
彼の体を覆っていた氷が、じわりじわりと溶けだして水へと変わっていく。はれて氷の呪縛を解いたソルは、洗い立ての犬のように体をブルブルと震わせ、体についていた水分をビチビチとあたりに撒き散らした。
「ヘヴィだぜ……」
油断していたとは言え、完全に動きを封じられてしまうとは、迂闊だったなと思い、ソルはフッと苦笑した。これが生身の人間だったならば、血液までも冷凍させられてしまっていたのだろうが、“特別製”の体を持つソルは、こうして無事にカムバックする事ができたのだ。
「無茶しやがる」
髪の毛からたれてくる水気を指先ではじくと、ソルは掌で炎の玉を作り出し、自分の体の周りに漂わせた。炎の熱気が、ズブ濡れになった体を暖めてくれる。
「……も、あのババアもいねえみたいだな」
そう一人ごちると、ソルは、聖堂の奥へと足を向けた。どうやら、この建物の内部には、脅威となる存在の気配はしないようだ。鬼の居ぬ間の洗濯というやつで、ソルは、建物の内部を調査する事にした。あの禍禍しい気は、確かにこの教会から発せられていたのだ。
「ついでに、体拭くモンもありゃいいけどな」
そんな事を考えながら、ソルは、聖堂の奥へと続く扉を開け、教会内の調査へと乗り出した。
***
聖堂から外へ出ると、そこは無機質な石造りの廊下が、奥へとまっすぐに伸びていた。その左右に、いくつか木製の扉がついている。辺りはシンと静まっており、人の気配は無い。ついでにいうと、暖かな聖堂とは正反対に、こちらはひどく冷え込んでいる。石造りだからか、シンシンと底冷えのするような寒さだ。さしものソルも、ブルブルと体を震わせた。このままでは、凍死してしまうかもしれないなと考えながら、一番手近にある部屋へと滑り込んだ。
その部屋は、修道士達が居室としていたところのようで、簡素なベッドが4つと、これまた簡素なクローゼットがしつらえられているだけだった。他には何も無い。だが、ベッドの上には、ボロボロの毛布が畳んで置かれてあったので、ソルはそれを引っつかむと、バサバサとふるった。積もり積もったほこりが、空中にぶわっと漂う。
「クソッ」
ごほごほとやりながら、その毛布を持ったまま、ソルは部屋を出た。一瞬使う事を躊躇したが、背に腹はかえられぬ。いちおう振るい落としたが、ほこりまみれの毛布でガシガシと頭を拭き、体の水分を吸い取らせると、その場に毛布を捨て置いて、ソルは探索を続けた。
しばらく教会内を歩き回ったが、特にめぼしい物は見つからなかった。先ほど入った部屋と同じような個室が数部屋と、祭具室や集会室に本棚が並んでいる部屋――おそらく図書室と思われる――、そして、最奥には、立派な扉のついた、至聖所と思しき神聖な雰囲気の漂う部屋があった。が、特に怪しいところはなかった。また、鐘楼堂へと続く螺旋階段を上ってみたが、鐘以外の物は何一つなく、肩透かしを食らった気分で、元の場所まで戻ってきた。
「おかしいな」
腕組みをしながら、ソルは呟いた。
「なんで2階に続く階段がありやがらねぇ?」
この教会は、外から見た様子だと、1階部分だけの建築というのはおかしい。確実に、2階部分が存在するはずであるし、2階があるのならば、そこへ行く為の階段もなければ、おかしいのだ。眉間にしわを寄せながら、ごそごそと上着のポケットから煙草の箱を取り出し、その中から一本を口に咥えた所で、ソルはペッと煙草を吐き出した。
「しけってやがる……」
チッと舌打ちをすると、ソルは手に持ったままの煙草の箱を握り締めた。手の中で、瞬時に煙草の箱が灰になる。
「勿体ねぇ。まだ2、3本しか吸ってなかったってのによ」
ブツブツ文句を言いながら、もう一度部屋を一つ一つチェックして回る。
――いっそ、天井をブチ抜いてみた方が早えか?
チラッと天井を見上げて、そんな事を考えても見たが、
――いや、天井と一緒に、余計なモンまでブッ壊しちまったら、面倒な事になるしな。
だいいち、屋根までブチ抜けば、あっという間に風と雪でこの教会の中は、グチャグチャになっちまう……と思い直す。では、どうすればいいのか? 完全に八方塞だ。
「そういや、あのババア……」
雪の女王がどうだとか言っていた。『雪の女王』と言えば、よく知られた童話のタイトルだ。もしかすると、それに何らかの意味があるのかもしれない――。そう考え、ソルは再度図書室へと足を向けた。
先ほどは調べなかった本棚の本――のタイトルに――ざっと目を通していく。聖書、神学書、神話や、悪魔などに関する記述のある本……。どれもが、隙間なく、タイトル順に、ギッチリと本棚に並べられている。ソルの探し物は、本棚にはないようだ。
しかし、気になるところが一箇所だけあった。
隙間なく並べられている本棚のうち、ちょうど本が一冊分だけおさまりそうなスペースが空いているのだ。
「ここにあった本は……?」
きょろきょろとソルが図書室内を見回すと、読書用のテーブルの下に、一冊の本が落ちていた。近づいて、その本を拾い上げる。本は、青い布地でカバーされた、金色の装飾文字で、『雪の女王』とつづられていた。
「小娘がカイとかいう坊やを探す旅に出る話だったか……」
パラパラとページをめくって、物語を目で追っていく。だが、物語は所詮物語で、ソルが必要とする情報は、特に記載されてはいなかった。ソルは、本をテーブルの上に置こうとして、ふと何を思ったか、本棚の空いているスペースにそれを押し込んだ。――ピッタリだ。『雪の女王』は、ピッタリと空きスペースに収まった。どうやら、本来ここに収められていたもののようだった。
すると、カチッと何かが作動したような音がし、続いて本棚が小刻みに揺れ始めた。
――なんだ!?
警戒するソルの前で、すすーっと横滑りに本棚が動き、扉が現れた。
「なるほど。こんなくだらねえ仕掛けを作っていやがったってわけか……」
つぶやくと、ソルはその扉を蹴破り、悠々と奥へと進んでいった。狭い廊下の突き当りには、地下へと続く階段。
――おいおい、降りてどうすんだ。
心の中で文句を言いつつも、他に調べていないところはここだけしかないと思い直し、ソルは地下への階段を下りていった。ちょうど一階層分くらいの階段を下りきると、目の前には、通路が延びていた。
迷わず、ソルは通路を進む。そして、また突き当たりにくると、今度は上り階段があった。階段を上る。一階層分上ると、さらにまた上り階段が続いていた。それも上る。おそらく、今ソルは、ちょうど2階部分に到達しただろうか。
――地下を通って、わざわざ2階に上らせるなんて、よっぽど人様の目に触れたくねえモンを抱えてたんだな。
これは臭うなと思いながら、階段を上りきった。その先には、暗い通路が延びている。ソルは更に通路を進んだ。そして、見るものを不安にさせる、不気味な彫刻――鏡のような平板なものと、そこからあふれ出るさまざまな天変地異の描かれた――が施された、暗色の両開きの扉の前に到達した。
――いよいよだな。
ソルは、この奥に今回の騒ぎの元凶となったものが、必ずあるに違いないと確信しながら、扉に手をかけた。扉は、悲鳴のような音を上げながら、ゆっくりと開いた。
「な、なんだこれは……」
思わず、室内を見たソルは、呻くように声を漏らした。
ソルの目に広がっているもの――。
そこは、丸い円形の部屋だった。天井はドーム状になっており、一面を透明なガラスが覆っている。ただし、派手に割れているが。そして、床一面には、空を映しこむほど、ピカピカに磨き上げられた、鏡が。
不思議なことに、この悪天候で、おまけに天井のガラスが割れているというのにも関わらず、風も雪も入り込んできてはいない。室内は不気味な静けさを保っていた。ある一点を除いて。
「ありゃ、いったい……」
鏡張りの床の上――ちょうど、部屋の中央に位置するあたりから、巨大な氷柱のようなものが生えていた。更に、その生え際には、子供くらいの大きさの人形が横たわっている。つまり、その人形に、その氷柱のようなものが突き刺さっているのだ。
人形と氷柱のようなものからは、天をめがけて、あの禍々しい光の柱のようなものが伸びていた。外から見えたのは、これだろう。
ソルは、大また歩きで人形に近づいた。
近くで見ると、それは小さな子供――女の子のようだった。ぱっちりと見開かれた大きな瞳はまるで鏡のようだ。その瞳には、空が映し出されている。力なく投げ出された手足は、今にも動き出しそうに見える。ずいぶんと精巧にできている人形だ。
――理屈はよくわからねえが、この人形が媒体になって、なんらかの作用を引き起こしてるってことか? だったら、話は早え。こいつをブッ壊しちまえば……。
そこまで考えたとき、ふと、その人形の顔に見覚えがあることに気がついた。誰だろう。つい最近、とても近くで見たことがある――。
「それがの本来の姿なのですよ」
ふいに、ソルの背後から、抑揚のない冷たい響きを持った声が聞こえてきた。
「ババア!」
振り向くと同時に、ソルは封炎剣から火柱を生じさせ、老女に向けて放った。しかし、火柱は、老女に到達する前に、どこから吹いたのかわからない冷たい風によってかき消されてしまった。
「ホホホ。相変わらずせっかちな殿方だこと……」
乾いた笑い声が、不気味な響きを持って室内にこだまする。ソルは、チッと舌打ちをすると、
「やい、ババア! テメエ、このガキの人形がの本来の姿ってのは、いったいどういう意味だ!?」
しかし、老女はひるんだ様子もなく、
「それそのまま、つまりはそういうこと……。それに、それは人形などではありませぬよ」
「んだと!?」
「それは、なのさ……。言葉どおりね」
ソルは、老女に警戒しつつ、改めて人形を良く見た。
「ハッ、馬鹿言うんじゃねえよ。は、チンクシャなガキなんかじゃなかった。それに、こいつが仮に人間だったとして、こんなモンに縫い付けられてて血の一滴もでねえのは妙な話じゃねえか」
ソルが矛盾点を指摘すると、老女はにたにたと笑った。薄気味悪さを感じるとともに、苛立ちを覚えたソルは、更に言い募る。
「いくら極寒の地とはいえ、死体だったら冷凍でもしねえ限り、腐敗するはずだろ? この建物の中は、生物の腐敗を進行させるくらいの気温には達しているからな。それがなぜキレイなままで残ってやがる? 死にたてだって言いてえのか? ああ? つまらねえハッタリはよしな!」
「あっはっはっは……」
哄笑が響く。
「なにがおかしい!?」
「ホホホホホ……。ああ、こんなに笑ったのは、久しぶりだよ。本当に面白い殿方だこと。ふふふふふ。はっはっはっはっは」
おかしくておかしくてたまらないという風に、老女は声を上げて笑った。枯れ枝のような体をくの字に折り、腹を抱えて大爆笑しているのだ。その姿に、さしものソルも、ゾッと身震した。
「死ね、ババア!」
手の中に火炎を呼び起こし、拳にまとわせると、ソルは老女に燃え盛る拳をたたきつけた。しかし、その拳はむなしく空を切る。
「ちょっとした術の応用ですよ」
背後から声。ソルは振り返りざま、回し蹴りを食らわせた。が、またしても空振りに終わった。
「大気中の水分を霧状に変化させ、幻影を作り出す……。私のような、水の法力を扱うものにとっては、造作もないこと」
「チッ」
ソルは忌々しげに歯噛みをした。そして、以前所属していた聖騎士団にいた、少年のような少女が、今と同じような原理の技を使えたと言うことを、ふと思い出した。
「フン。だからどうした? 手の内を明かして、殺してもらいたいのか?」
「とんでもない。確かに、貴方と戦えば、あたくしはいともたやすくあの世に行くことができましょう。けれど、あたくし、死ぬわけにはまいりません」
「そうかといって、ここでテメエを野放しにしとくわけにもいかねーな」
「だが、貴方はあたくしを殺すことをためらっている。事件の真相を……知りたいから、なのでしょう?」
黙ってにらみつけたソルの返事を、肯定と受け取ったのか、老女は続ける。
「事件の真相。すなわち、この異常なまでに吹きすさぶ吹雪の元凶。どうすればそれを止められるか。貴方はそれを知りたいと思っているはず」
「……」
「フフ。に聞いてもロクな答えは得られないからねえ。あたくしから聞くしかありませんものねえ」
ソルは、グッと封炎剣を握り締めた。そして、老女を指差す。
「わかってんなら、話は早いぜ」
「せっかちなのは決して褒められたことではありませんよ? それに、あたくしは乱暴などされずとも、キチンと真相をお話しようと思いましたから。この部屋を見つけてしまった貴方には」
冥土の土産にね、とでも言うように、老女はぺろりと――いやに赤い舌で――唇をなめた。
「どこから話せばいいか……。そう、そうですね、天候を……操ることが出来る法力というものを、貴方はご存知だろうか?」
ふっとどこか遠い目を、空に向けると、老女はぽつり、ぽつりと語りだした。
「もうどれくらい前だったか……。一世紀以上前の事だったでしょうかね。この世にね、たった一人だけ、天候を操ることができる術者がいたんですよ。ええ。彼は――とても素晴らしい力を持つ人でした。砂漠地帯に雨を降らせたり、豪雨による水害を防いで見せたり……ね」
ほう、と老女はため息を吐いた。
「彼はある日、この力を自分一人だけが所有しているのは惜しいと考えたのです。これほどまでの力があるのなら、みなで分け合うべきだ。そして、少しでも天災、特に、天候によって引き起こされる害を減らそうと考えたのです。ええ、とても、素晴らしい人でした。しかし、その法力が巨大であったゆえに、弟子をとって、次代へと引き継がせることもできない……。どうすれば、この才能を、人々に分け与えることができるのか? 彼は考えました。何年も、何年も、一人孤独に研究を続け――そして、一つの結論にたどり着くことができたのです。それが」
老女は、ぐるりと部屋を見渡した。愛おしげに目を細めて。
「この部屋です。この部屋が、彼の研究の成果……」
「――まさか、旧科学技術≪ブラックテック≫?」
満足げにうなずくと、老女は再び口を開いた。
「そう。さる科学者が導き出した法力学に、ブラックテックの力を融合させ、誰でも、容易に天候を操る術を得られるようにと、彼は考えたのですよ」
ソルは言った。
「しかし、ブラックテックは、一世紀ほど前ならすでに禁止事項になっているはずだぜ」
「そのような瑣末事、気になど留めてはいられなかったのでしょうね。たとえ禁断の力であったとしても」
こほんと咳払いし、
「そのような話はどうでもいいでしょう。まあ、禁止された事項であったことから、すでに廃墟となって久しい、この地の利用を思いついたのでしょうが……。それよりも、彼の研究の話に戻しましょう」
「俺は気が短いタチでな。長引くようなら……」
「本当にせっかちですね、貴方は。まあいい、詳細は割愛しましょう。とにかく、彼の研究は成功した。それはこの部屋。この部屋の床一面の鏡と」
すっと天井を指差して、
「あのドーム状となった天井とそれを覆うガラス。あれに秘密があるのです」
ソルは黙って腕を組んだ。老女は多少興奮気味に口を開く。
「まず、天候を操る法力。簡単にいえば、術者がイメージした天気を、空に投影することによって、操る事ができたと彼は言っておりました」
「本人から直接聞いたような口を利くんだな」
「……つまらぬことを申しましたね。聞き流してください。ともかく、その力の応用で――科学では、“イメージする”という人間の脳内の部分を補完できなかったため、直接そのときの天気を装置に覚えさせることにしました。そのための媒体として、天井を透かして映りこむ床の鏡が使用され、さらに、鏡に記憶させた天気を空に投影、増幅するための装置として、天井のガラスが使用された。つまり、鏡は術者のイメージ部の代わり。ガラスは投影する力の代わり……ということになります」
「つまりは、鏡に映りこんだモンを、そのまま空に投げ返すってワケか?」
「ええ」
「なら、毎日天気なら、当然鏡は天気の空を記憶し続けるだろ? 雨なんて降るはずもねえ。それと、増幅装置って言ってたが、そいつは本当に必要なのか?」
「もちろん。何一つ無駄のない設計なのですよ、この装置は。それに、鏡は使用者の命令によって――つまり、これはコマンドワードのようなものですね。このあたりに、ブラックテックと法力学の融合が見て取れるでしょう? とにかく、記憶しろと命じた部分のみをとりこむのです。だから、映りこんだものを、なんでもかんでもすべて記憶するというわけではありませんよ。更に、増幅装置は魔力の増幅、ええ、取り込んだ力を投影するために使われる力を増幅するのに必要なのです。さもなければ、世界的規模での天候を操ることはできないと。彼はそう考えたのです」
「聞いておきたいんだが」
「何なりと」
「その記憶媒体には、どんくらいの容量があったんだ?」
「……いい質問ですね。そこが、彼の唯一のミスだったのです。彼は、色んなパターンの天候をすべて記憶させ、必要なときにだけそれを呼び出せるように設計したつもりだったのでしょうが、現実には……そうはうまくいかなかったとだけ申しておきましょう」
ふと口を閉ざし、老女は鏡を見つめた。
「その失敗が原因で、彼は命を落とす羽目になったとも」
「冷静に考えりゃ、ムチャクチャな理論だぜ。死んでよかったんじゃねえのか、そんなやつ?」
「なにを言うか! 彼のような天才は、こんなところで死ぬべきではなかったのだ! たった一度きりの失敗で……。暴走した機械を押さえるため、すべての力を使い果たし、そして」
「……読めたぜ。そいつのせいで、今回みたいに、吹雪が世界各地を襲ったとか、大方そんなんなんだろ? だから、人間どもは気づいたんだ。これほど天候を狂わせられるのは、あの忌々しい法力使いに違いねえってな。天候を操れるのは、そいつしかいねえんだからよ。ま、まんざら間違いでもねえな」
「大きな間違いだ! 直接、彼が世界を恐慌に陥れたわけでもないのに、無知な民衆は、彼を悪魔だなんだと迫害し、そして、ついに処刑してしまったのだ! 生きたまま火あぶりにするというおぞましい方法で。彼は、灰燼に帰してしまった……」
「で、ババア、テメエは?」
「幸い、買出しに行っていたから無事だった。この部屋も、隠し通路の先にあったから、愚か者どもには見つからずに済んだのさ」
ソルはヒュウと口笛を吹いた。
「そいつは残念だな」
「なんとでもお言いなさい」
「質問がある」
「なんなりと」
「ババア、テメエ、普通の人間だろう? なぜ、一世紀以上も生きていられる?」
「そんな事。あたくしが、水の力を使うと言うことは先ほど話しましたね? あたくしは、つまり、大気中の水分を凝縮して、氷結させることに長けていた。だから」
「老化を……止めることはできなかったようだが、遅らせることはできたのか」
老女はうなずいた。
「左様。あたくしがこの世界に復讐するために、ある物が必要でしたからね」
「ある物?」
「――“鏡の瞳”を持つ人間さ」
「鏡の瞳? なんだ、そりゃ」
「この床と同じ役割を果たす人間の瞳のことですよ。そう、それはいうなれば、童話の『雪の女王』のように、悪魔が作り出したものなのかもしれませんね。鏡の破片が刺さった瞳とでも言うべきなのでしょうか。もっとも、悪魔の鏡の欠片が突き刺さった子供は、世界中の美しい物が、醜い物に見えるようになってしまいましたが、この“鏡の瞳”を持つ者は、純粋な心の持ち主でなければならない。対面した人間の心の中を見透かすほどの、美しく澄んだ心と、それを映し出してしまうほどに煌く美しい瞳……」
「また『雪の女王』か。たいがい、その話が好きだな、テメエは」
「彼は、私のことを、よく『雪の女王』のように美しいと褒めてくれましたからね。まあ、そんな話はどうでもよろしい。とにかく、力の暴走で使い物にならなくなったこの役立たずの床の鏡の代わりに、あたくしはどうしてもそれを探さねばならなかった」
「で、何年も何十年も探し続けて、ようやく見つけたってワケだな。それが、か」
「その通り。やっと見つけたのですよ。私が捜し求めていた、“鏡の瞳”を持つ人間を。それからは、トントン拍子に事が運びましたよ。あたくしを、祖母だと信じ込ませ、吹雪の中を連れまわしてその恐ろしさを脳裏に焼き付けてやり、そこで、増幅器に貫かれて息絶える寸前のの魂を、あたくしの作り出した氷のヒトガタに入れてやった」
恍惚の笑みを浮かべて、老女は笑った。
「増幅器の刺さった体で、鏡の瞳で空を見て、薄汚い世界を、白く美しい白銀の世界に、そう、雪の女王が君臨するに相応しい世界に作り変えた……。は、本当に良い子でしょう?」
「――雪の女王は、じゃなく、テメエだな。は哀れなカイってこった」
「ホホホ、なかなか上手い事をおっしゃいますね。でも、は間違いなく雪の女王でしょう。魂の宿った氷の体を持っているのですから」
「……テメエの話は聞き飽きたぜ!」
言うのと同時に、ソルは封炎剣の出力を最大限にし、横たわる“だったもの”に投げつけた。しかし、“だったもの”から立ち上る禍々しい気のような光の柱にはじかれ、むなしく鏡の床に転がった。
「話は最後まで聞くものだと、親に教わりませんでしたか? 今、その投影・増幅を行っている物を傷つけることはできませんよ。行き場のなくなった魂の帰る場所ですからね。無意識にアレが保護している……」
「アレ、だと?」
「ええ。の魂が、それを保護しているのです。それを傷つけたければ、を、いえ、雪の女王を殺しなさい。そうすれば、魂が肉体に戻ろうとするために、その結界が消えることでしょう。ただし、肉体に戻ったところで、が死ぬのは同じ。その状態を見ていただければ、明らかだとは思いますがね」
クククとのどの奥で老女が笑う。
「どっちみち、これを止めたければ、を殺すしかないんだよ……」
「私は構わない! ソル、私を殺して!」
声のしたほうを、老女とソルは同時に振り向いた。そこには、目からぽろぽろと涙を流しているの姿があった。
「!」
「ソル、私を殺して。そうして」
老女が驚いたように声を上げた。
「、お前、いつからここに」
はきゅっと下唇をかみ締めると、
「ごめんなさい。ずっと、この扉の外で、聞いていました」
「……そうかい。でも、いいさ。すぐに忘れさせてあげようね。またお前の大好きな『雪の女王』のお話で」
「おばあちゃん!」
悲痛な叫びを上げるを、老女が驚いた顔で見た。
「、お前、あたくしに逆らうと言うのかい?」
「――ごめんなさい。でも私はもう嫌なの! 人を傷つけるのは、もう嫌なのよ」
「なにを言うんだい、この子は! あんなに可愛がってやったのに!」
「その事については、感謝をしているわ。私は、おばあちゃんが大好きよ」
「それなら迷うことはないだろう? あたくしも、お前のことが大好きだよ。美しくて、無垢で、残忍なお前のことが。侵入者どもを次々に氷の塊に変えていったお前のことがねえ……」
「それは、テメエがこいつを操ってたからだろうが!」
ソルの拳がうなった。
「ぐあっ」
確かな手ごたえがあり、老女は体をくの字に折り曲げて、苦しそうにのたうつ。
「ババアだろうが、容赦はしねえぜ……」
ソルが腕の周りに炎をまとわせながら、床に膝をついている老女に、一歩近づいた。
「ソル、おばあちゃんを殺すの?」
悲しそうな顔で、が聞いた。
「ああ、殺す」
「……そう、そうね。おばあちゃんは、たくさんの人に酷いことをしたんですもの。でも、それは私も同じよ、ソル」
ソルは、無表情での顔を見つめる。だが、その瞳に、少しだけ悲しみの色が浮かんでいたのを、は見て取った。
「ねえ、ソル、全ての元凶を断つなら、私を……殺さなくては。さっき、おばあちゃんが言ったように。そうしなければ、苦しんでいる世界の人たちを救うことなんてできないわ」
「世界の人間なんぞ、どうなろうと俺の知ったこっちゃねえ。だが、俺は、こういう手前勝手な人間が、一番ムカつくってだけだ。だから、ババアは殺す。絶対に殺す」
「そう……」
はちらりと老女を見遣り、そして、決意のこもった口調で、ソルに言った。
「おばあちゃんを殺すというのなら、私は貴方を殺すわ」
「なんだと!?」
その瞬間、の足元から冷気が立ち上った。冷気は渦を巻いて、ソルに襲い掛かる。
「ちいっ!」
間一髪でそれを避けると封炎剣を拾い、ソルはに向けて、叫んだ。
「、テメエ!」
茫漠とした表情で静かにソルを見つめながら、は両手をソルにかざした。瞬間、突風とともに、細かい氷の飛礫が、ソルに向かって飛散してきた。
「ガンフレイム!」
地を這う火柱で狂い舞う氷の飛礫の間に道を開き、
「グランドヴァイパー!」
その炎の道を、地を這うように突進した。のすぐ目の前まで距離を詰める。が、悲しそうな瞳でソルを見つめた。ソルの動きが、一瞬鈍る。が、すぅっと息を吸い込み、それを吐き出した。きらきらと光る、凍てつく吐息が、渦を巻いてソルを包み込もうとした。
「クソッ」
「ソル、危ない!」
聞き覚えのある元気な声がしたと思うと、ソルの体は暖かな光に包まれた。おかげで、体を取り囲んだ冷気の効果が薄れたようだ。たいしたダメージを受けることはなく、ソルはと間を取って、体制を立て直すことができた。
「ふん、気の力か。こんなことできるのは……」
言いつつ、ソルは目だけを入り口の方へと向ける。そこにはアッシュブロンドの髪をぴょこぴょこと揺らしながら、サクがソルに手を振っていた。そして、
「坊やも一緒か……」
「私を坊やと呼ぶな!」
絶世の美顔を怒りに歪めながら、カイが声を上げた。
「まあいい。ソル! 加勢するぞ!」
「ソル、やっぱり生きてたんだね。良かったよ。うん」
口調こそおどけているものの、いつでも即座に対応できるように全身を緊張させながら、サクが笑った。
「ハッ。この状況でニコニコしてられるたあ、緊張感のねえお嬢ちゃんだぜ」
「緊張感がなくって悪かったな!」
いちおうソルにやり返すと、サクはに向き直った。
「!」
「サク……と、カイ」
一瞬、悲しそうに目を伏せたが、すぐには鋭い視線を三人に投げかけた。
「貴方達も、氷の像にしてあげる」
くすりと妖艶に微笑むと、舌なめずりをする。
「凍りついておしまいなさい!」
その声と同時に、カイの眼前に氷の柱が現れた。
「うわっ」
かすったのかカイの防寒服が破れる。その隙間から、騎士団の制服が顔を覗かせた。それを見た瞬間、の顔色が一瞬変わったが、すぐに元の無表情に戻ると、ヒュヒュヒュ、と短く息を吐き出し、小さな氷の塊をいくつか空中に作り出した。それを、吐き出した吐息で、吹き飛ばしてくる。
「こんなトコまで制服着てくるなよ!」
鋭い突込みを入れながら、サクは気の力を練り、室内に風を起こした。の作り出した氷の飛礫と、サクの風の力とがぶつかり合って相殺した。
「食らえ!」
ぶつかり合った二つの力が相殺される瞬間、ソルはの懐に飛び込んでいた。封炎剣が炎を噴きながらうなりをあげる。の髪の毛に、炎が燃え移った。火は、なめるようにの体を這って燃え広がっていく。
「坊や!」
ソルが叫ぶ。カイは、封雷剣を構えると、に切りかかった。だが、刃を振り下ろす瞬間迷いが生じた。先ほど、サクと一緒に言葉を交わした人間を斬り捨てることに対する迷い。顔に苦渋を浮かべるカイを見て、はフッと微笑むと、
「貴方がたと同じ制服を着た人たちを殺したわ。……誰も彼も、たいしたことなかった」
その一言で、カイは決断した。封雷剣を、炎で蒸気となりつつある、の体に突き刺した。
電流が、半分水になっているの体を流れ、青白く発光し――そして消えた。
その刹那、天をめがけて伸びていた光の柱が掻き消えた。ソルはそれを確認すると、地面に縫い付けられているの“本体”から増幅器のガラスを抜き取り、部屋の隅に放り投げる。ソルは、の小さな体を抱き上げると、
「おい、……」
呼びかけられ小さな女の子は、ぱちぱちと瞬きをした。虚ろな瞳が、ソルに向けられる。だんだん焦点があってきたのか、瞳に光が宿ったように見えた。
「ソ、ル」
血の気のない唇を小さく動かし、はソルの名前を口にした。そして、ゆっくりと視線をさまよわせると、ソルの肩越しにこちらを見ているサクとカイに目を向けて、うっすらと微笑んだ。
「ありがとう……」
「のアホ! 最後、わざとあんなこと言って……」
サクが、やりきれないというようにつぶやいた。
「確かに敵をとってやろうと思ったけどさ! もう少し、やり方ってモンを」
「おい、嬢ちゃん」
「なに、ソル!?」
「事情は後で話す。悪いが、少し外してくれねえか?」
「……わかった」
サクは、カイを促すと、
「じゃあね、」
「うん。サク、さよなら。ちょっとの間だけでも、お話できて嬉しかった。カイも、さよなら」
「ごきげんよう、」
別れの挨拶を済ますと、二人は連れ立って部屋を出て行った。
「、テメエは馬鹿だな」
「……ひどいよ、ソル」
「俺が、テメエを殺すのを躊躇すると思って、全力でかかってきやがっただろ? そんな事しなくたって、俺はちゃんとテメエの息の根を止めてやったぜ」
力なく笑うと、は言った。
「どうかな? ソルは優しいから。私を殺すことなんてできなかったんじゃないかなあ……」
「なんとでも言え」
「うん。じゃあ、ソルにお願いをしてもいい?」
「なんだよ」
「あのね……キスしてもらっていい?」
ソルは、ぶっきらぼうに言った。
「ガキが色気づいてるんじゃねえ」
「大人の私とはキスしてくれたでしょ」
「テメエが無理やりしてきやがったんだろうが」
「だから、今度はソルからしてよ。私、そうじゃなきゃ天国に行けない」
の体から、だんだん力が抜けていくのを感じる。ソルは、腕に力を込めると、そっとの小さな唇に優しく口付けを落とした。
「ありがとう、ソル。すごく……嬉しい」
「こんくらいで嬉しくなるなんて、平和な奴だぜ」
「ねえ、ソル……。私、生まれ変われるかな」
「さあな」
「じゃあ、もし、もし、生まれ変わったら……私のことを、ソルの」
「ああ」
しかし、がそれ以降、口を開くことはなかった。ぐったりとうなだれたの体を抱き上げると、ソルは鏡張りの部屋を出た。
どこかで、ゴーン、ゴーンという鐘の音が聞こえる。
鐘楼堂の下に行ってみると、老女が体を奇妙な形に捻じ曲げ、血溜まりの中に横たわっていた。それを、複雑な表情で見つめるカイとサクに、事のあらましをかいつまんで説明すると、ソルはの体を抱きかかえたまま、ブラリと街を後にした。
途中、ソルはを埋葬すると、あの生バンドの演奏が聴ける酒場に、フラリと立ち寄った。ヴォーカリストの男が、ソルの姿を見つけて、人懐っこい笑みを向けてくる。
ソルは、酒場にいた荒くれ者達に、この酒場で一番高い酒を振舞った。
大歓声に湧く酒場で、ヴォーカリストの男が、ソルに問いかけた。
「なにに乾杯する?」
ソルは、言った。薄く口許に笑みを浮かべて。
「に」
「わかった。じゃあ、みんな、に乾杯!」
「に乾杯!」
「に!」
酒場のあちらこちらから、乾杯の声が上がる。ソルは、その声を心地よく思いながら、自らもグラスを掲げ、
「に……」
グラスの中身を、グイっと飲み干した。
なぜか、が無邪気に喜んでいるような気がした――。
<第六章・終>