序章〜悪夢〜
――近頃、私は同じ夢ばかり見る……。
夢の中の私は、まだ小さな女の子で、しわくちゃのおばあちゃんの手に引かれながら、ヒョウヒョウと吹きすさぶ吹雪の中を、おぼつかない足取りで、一生懸命に歩いていた。私の視界は、吹雪のために、真っ白に覆われてしまい、周りの景色すらよくわからない。私の少し前を歩き、手を引いているおばあちゃんの背中すらも。それでも、ただひたすら、おばあちゃんの手に引かれるままに、私は歩き続けるのだ。
「あぅっ」
地面に積もっている雪に足をとられ、転びそうになったが、
「大丈夫かい?」
おばあちゃんが、私を力いっぱい自分の方へと引っ張ってくれたおかげで、転倒を免れた。
「うん、ありがとう」
「雪が積もって足をとられやすい。気をつけるんだよ」
「うんっ」
頷いた私の頭を、おばあちゃんが優しく撫でてくれた。
「良い子だね」
そう言うと、おばあちゃんはまた私の手を引いて歩き出した。それからしばらく、私達は無言で歩を進めた。今度は転んだりしないように、足元を見ながら歩いてみるが、やはり風雪のせいで、思ったような成果は上げられなかった。
それでも、ただひたすらに歩き続ける。おばあちゃんに導かれるままに。――どのくらい、そうやって歩いていたのだろう。
「さあ、着いたよ……」
おばあちゃんが、そう言って足を止めた。私も、足を止める。そして、顔を上げた。いつの間に着いたのやら、どこか建物の前に到着したようだ。
「ここ?」
私が目の前に構えている扉を指差すと、おばあちゃんは「そうだ」と答えた。そうこうしている間にも、強い風に煽られた雪は、容赦なく私達に襲い掛かってくる。身を切るような寒さに、私の体力はどんどん削られていく。
「寒かったね。さあ、中へ入ろう」
扉に手をかけるおばあちゃん。さして力をこめた様子はなかったが、扉は、鈍い音を立てながら、すんなりと外開きに開いた。
私達は、建物の中へと足を踏み入れた。入ってすぐに、おばあちゃんが扉を閉める。たった一枚扉を隔てただけだというのに、その暖かさといったら……。一瞬、天国にでもたどり着いたのではないかと、私は錯覚した。だが、よく見ると、別にここは天国でもなんでもない。どうやら教会のようだ。そして、私達が今いる場所は、聖堂にあたる場所のようである。
聖堂は、奥に長い長方形をしており、規則正しく並べられた木製の長いすが、すぐ私の目に入った。その長いすの真ん中を縦断するように、真っ赤な絨毯が、この扉から――ちょうど今入ってきた扉が聖堂の中心になっている――まっすぐに奥まで伸びていた。絨毯が続く先……つまり、この聖堂の奥には、天使の描かれた見事なステンドグラスが、その手前には磔にされた神の子の像があり、更に手前には神父が説教をする時に立つ、説教壇がすえつけられていた。それらは、無数に並べられたロウソクの灯りに照らされ、夢幻のように浮かび上がっている。
「きれい」
私は、うっとりとつぶやいた。なんて、荘厳で、美しいのだろう。ここは、神の住処たるにふさわしい、大変立派で、美しい教会だった。
「こっちへおいで」
おばあちゃんが、聖堂の美しさに心奪われている私の手をとった。
「もう少し見ていたい」
私がそう言うと、おばあちゃんは少しいらだったように、私の手を引いた。
「いいからおいで」
そう言って、私の手を引きながら、どんどん聖堂を奥へと進んでいく。
「……ごめんなさい」
私は、少し前を歩くおばあちゃんの背中に、そうつぶやいた。
私達は、聖堂の奥にある扉を抜け、聖堂とは対照的に、ひどく暗くて、味も素っ気もない、薄ら寒い廊下を、奥へ、奥へと進んでいった。
どのくらい、廊下を進んだのだろうか。いつの間にやら、私たちは、廊下の突き当たりにある、恐ろしく不気味な装飾の施された、暗い色の扉の前に立っていた。――いや、私は、独りで扉の前に立っていた。見渡せども、おばあちゃんの姿はどこにもない。廊下の途中ではぐれたのかもしれないと思った私は、来た道を引き返そうとするのだが、後ろを振り向いても、目に見えるのは、闇。また、闇。今まで歩いてきた廊下の影も形も見ることができない。
うかうかしていると、闇に飲まれるような気がして、私は泣きながら、暗色の扉を開いた。
――そこは、不思議な空間だった。
天井は、一面が透き通るガラス張りになっていて、床は、一面鏡張りになっているのだ。荒れた、薄暗い、吹雪の空が、床一面に映りこんでいる。私の姿が、床に映り込んでいなければ、私は足元に空があると思い込んでいただろう。
――本当に、不思議な空間だった。
何かに誘われるように、私はふらふらと部屋の中央へと足を運ぶ。天井――いや、天井を透かして見える空――を見上げ、そして、その空を映している床一面の鏡を見る。変な事に、私はこんな状況下にあっても、床一面の鏡に下着が映り込んではいないだろうか……なんていう、他愛の無いことを心配していた。
ふと、体に揺れを感じて、私はその場に立ち止まった。耳に、ピシッという嫌な音が聞こえてくる。僅かに感じていた揺れは、次第に大きな振動となって、私に襲い掛かった。
大きな音を立て、部屋全体が、生き物のようにぐわんぐわんと揺れ動き始める。私は、心細くて、恐ろしくて、わんわんと大きな声を上げて泣き始めた。部屋中に、ピシッ、ピシッという何かにヒビが入るような音が響き始めた。ぐわんぐわんと続く、大きな揺れ。どうやら、これは大きな地震のようだ。だが、これが地震だとわかったところで、どうなるものでもない。私には、どうにもできない。ただ、声を上げて泣くことしかできない。一段と激しい揺れが、私を襲った。たまらず、私はしりもちをつく。お尻から、ひんやりと冷たい鏡の感触。それがたまらなく嫌で、私はもがいた。立ち上がろうと、必死にもがいた。
もがく私の頭上から、なにかが割れたような、派手な音が聞こえてきた。
反射的に天井を仰いだ私の目に、天井一面に張り巡らされていた巨大なガラスが割れ、その破片が、まるで、まるで先の尖った、巨大な氷柱のようになって、私へと、迷わず、無慈悲にも落ちてくるのが見えた。
それは一瞬だった。
恐怖で目を閉じることも、悲鳴を上げる間もなく……私は、巨大なガラスの氷柱により、温かみのカケラもない、巨大な鏡に縫い付けらてしまったのだ。不思議なことに、少しの痛みも感じる事はなかった。しかし、確実に致命傷を受けたであろう私の体は、指先すらピクリとも動かすことができない。
ああ。段々と、視界が……目の前の景色が、かすんできた。私はこのまま死ぬのだろう。そう思うと、見開かれたままの瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちた。意識が、ぼんやりとしてくる。今際の際に瀕した私の目の前に、いつの間にかおばあちゃんが立っていて、私を見下ろしていた。私はおばあちゃんに助けを求めようとするが、体が動かない。おばあちゃんは、そんな私の事を、ただ、ただ黙って、ニタニタと笑いながら、見下ろしていた。
それを視認したとき、私の口からは、背筋が凍りつくような悲鳴がほとばしり、それと同時に、上空に向けて、白く巨大な渦が立ち昇るのを見たような気がした。
そして――私の視界は、闇に閉ざされた。
「!」
名前を呼ばれて、意識が覚醒した。生々しく、恐ろしい夢の残骸が、夢から覚めたばかりの私を、酷く苛んでいる。だが、誰かに名前を呼ばれた事を思い出して視線をさまよわせると、そこには、心配そうに私を見下ろしている、優しいおばあちゃんの笑顔があった。
私は、ホッと胸をなでおろす。
おばあちゃんは、私の頭を愛おしそうに撫でると、いつものように、一冊の本を取り出し、それをゆったりとした口調で、読みはじめた。
「昔あるところに、カイという少年と、ゲルダという少女が……」
<序章・終>