あり得ないなんてことはあり得ないって誰が言ったんだっけ。
「……人間と話しをしていたのか」
「テスタメントさん……」
の姿が見えなくなった後もその方向をじっと見つめていると、横手から黒い影が姿を現した。
ディズィーに向け慈しむような表情を見せたかと思うと、忌々しげに彼女の視線の先を睨み付けた。
「何も危険はありません。怪我をしたただの女の子です」
「どうかな?人間は汚い。そうやって油断させ裏切る」
「嘘はありませんでした。私は、そう思います」
「……私はお前を守る為にいるのだ。わかってくれ、ディズィー」
つい、欲が出てしまいそうだった、とディズィーは彼女とのやり取りを思い出していた。
彼女は本当に自分のことを、むしろここがどういう場所なのかも知らない様子だった。
だからこそ、あんな風に接してくれたのかもしれないと思うと胸が痛んだが、それでも嬉しかった。
友達、というものがいたらこんな感じなのだろうかと想像し、話している最中にも嬉しさがこみ上げてきて涙が出てしまいそうだった。
『じゃあ、またね!』
自分がどんな存在かを知ったらきっと彼女は二度とここには来ない――そう思うと無性に悲しかった。
テスタメントの言葉を聞きながら、ディズィーはそっと瞳を伏せた。
ざくざくと落ち葉と硬い土を踏みしめながら
は森の中を進み続けた。
不思議なことに怪我の痛みはどんどん引いていった。
そんなに効果のある薬草だったろうか、と疑問符を浮かべながらも足を止めることなく突き進む。
鬱蒼としてはいるが、人の手が入っていない自然のままの綺麗な森だった。
ディズィーが言った通り、あの場所は森のかなり奥の方なのだとしばらく進んでみて分かった。
開けていない森の奥に何故ディズィーのような女の子が一人でいたのか疑問に思ったが、今はそれは頭の隅に避けておくことにした。
通信メダルを開く。
方角は正しい。
この先に別のメダルを持つ誰かの反応がある。
ディズィーが教えてくれた川沿いの先の出口ではなく、目が覚めた時に確認したそのシグナルの方へ
は向かっていた。
向こうも場所を移動しているようだが、それほど早い速度ではない――それに、徐々に森に侵入してきているような動きだ。
このまま進めばおそらく追い付ける。
表示を再度確認し、歩調を早める。
不安と期待が入り混じりうるさく騒ぐ心臓を服の上から押さえた。
しかしディズィーの話が本当だとすると、ここはローマから遠く離れた場所ということになる。
ではこのメダルが指し示す先にいるのは何者だろう。
シグナルが1つというのも気になる。
作戦行動中ではないにしろ、聖騎士団員が単独行動するということはほぼない……まあ、
は気晴らしにちょろっとソロ散歩をしてしまったことが何度かあるが……もちろん見つかる前に戻っていたし問題になったことはない。
歩き続ける内に気持ちに余裕が出てきたようだな、と口元に小さく笑いを浮かべる。
そこでふと、体も軽くなっていることに気付く。
いつもより回復が早い気がする。
自分の身体を少し変に思いながら、
は先を急ぐべく踏み出す足に力を込めた。
「――おおっとそこ行くお嬢さん、こんなところで何してるんだい?」
森の奥、影になった部分から声がした。
次いですぐに現れたその姿格好をちらりと見やっただけで、
は止めた足を再び動かしはじめた。
「ちょっと待てい!人を無視すんな!」
「人気のない森で上半身裸の男に声かけられたら100人中110人逃げるだろ」
「母数越え!?」
声をかけてきたのは、半裸の男。
もう一度言う。半裸だ。
言い間違いでも誇張でもない。
もしかしたら肌色部分は50%ではなく45%くらいかもしれないが、四捨五入で半裸だ。
濃い青色の着物風の装いなのだが、上半身には布が被っていなかった。
見るからに普通ではない。怪しい。
「変質者と間違えられたくないなら上着を羽織ることをお勧めします」
「まあそう警戒なさんなって――って怪我してるじゃないか。ギアにやられたんかい?」
「?ギアがいるのか?ここに?」
こんな静かな森に?と眉根を寄せる。
戦場特有の緊張感など感じないというのに。
「違うのかい?……その様子じゃ賞金狙いでもなさそうだしな。あんた本当にこんなところで何してたんだい?」
賞金?と内心首を捻るが、表情には出さない。
話の流れから推測するに、この森には賞金のかけられたギアがいて、おそらくこの男もそれが目当てというところか。
聖騎士団に入る前は、
もギルドに登録し仕事を請負い賞金を得て生活していたのだ。
その辺りの状況は予想が付く。
それに、ふざけた言動をしているがこの男も戦いに身を置く者らしい雰囲気を纏っていることにも気付いていた。
そしてそれはおそらく向こうもだ。
黙ったまま見返してくる
の様子に、男はにぃと口端を持ち上げる。
「ま、野暮なことは聞かねえさ。
だが、あんたみたいな達人を黙って見過ごしてちゃ修行の旅に出た意味がないんでな。
一手お手合わせ願えないかい?」
「えー何を言っているのか分からないなぁ。
はただの一般人だよ」
しかし構っている暇はないのでしらばっくれることにする。
間髪入れずに振られた形となった男は、しかし笑みを消さずに続けた。
「見る人間が見りゃ分かるぜ。相当の使い手だろ?」
「そうだったとしても理由もやる気もないんだけれど」
「つれないこと言うねぇ。
……まあ無理強いはよくねえしな。怪我が治ったらよろしく頼むぜ」
「……(あっさり引き下がるなら声を掛けないでほしかった)じゃあ、先を急ぐから」
「ああ、ひとつだけ注意っつーか忠告っつーか」
さっさと通り過ぎようとする
に向け投げかけられた言葉は。
「警察機構がうろついてるらしいからな。……もしあんたがジャパニーズなら用心した方がいいぜ」
「残念ながら違うよ。あんたはそうみたいだけれど」
言われ慣れた文句だった。
しかしお前が言うなという状況である。
この男の出で立ちは顔つきといい服といい、はい僕はジャパニーズです!と全身で名乗っているようなものなのだから。
「俺は上手く逃げるからいいさ。
だが、ふーん、そうかい。同郷の匂いがしたんだがなぁ」
「……一応
も保護の義務がある立場だから、あんまり大っぴらに言われると面倒でも無視できないんだけれど」
同郷とはジャパニーズコロニーのことを言っているのだろうか。
しかし縁があったことはない。
あまりお節介を焼こうというのなら、こちらも牽制しておくかと少し言葉を強めた。
「おや、あんたもお巡りさんかい?」
「違う。今の所属は聖騎士団だよ」
「は?」
「……何だよその反応は」
この職業にしては年少……要は子供であるという自覚はある。
その為身分を明かした際に驚かれたことは何度もあるが、あまりに間の抜けた返しをしてきたせいでカチンときてしまう。
は隠しもせず不機嫌な表情を見せるが、男は相変わらずこちらの態度はお構いなしの様子で更に続ける。
「聖騎士団は何年も前に解体されたはずだぜ?元騎士さんかい?」
「……は?」
予期せぬ言葉に、今度は
が間抜けな声を出すことになった。
――半裸の不審者――闇慈(あんじ)と名乗った――は白い鉢巻きをかりかりと掻きながらこう説明してきた。
曰く。
聖戦は2175年にジャスティスが封印されたことにより終結したと。
曰く。
聖戦終結により聖騎士団は解体、国際警察機構と吸収合併したと。
曰く。
今は2181年であると。
――一体どういうことだ。
聞く間に顔色が悪くなってゆくことに気が付いたのか、闇慈は訝る様子で俯く
を見つめていた。
その視線は
も気が付いていたが、構っている精神的余裕はなかった。
彼の話が本当だとすれば、自分はあり得ないことに時間を超えてここにいるということになる。
実は、空間転移の可能性は考えないでもなかった。
そういう法術体系があるのは周知の事実だし、技術として活用されているのだから。
だが、しかし。
距離が問題だった。
ディズィーが言った馬車で一日二日じゃ着かないということが事実であるとすれば、200㎞以上は離れているということになる。
そんな長距離を空間転移した事例は聞いたことがない。
よって可能性からすぐに除外したのだ。
そう思考を巡らせていたところに、突拍子もなく時間転移の可能性が浮上した。
時間転移って。
同じ転移にしてもわけが違う。
眉唾すぎてにわかに信じられない。
ちなみに2173年から今までずっとどこかで眠っていたという類の可能性も考えるまでもなく無い。
自分の体の状態からそんなことはすぐ分かる。
そしてこの闇慈という男が嘘を言っている可能性について。
……しかしそれも限りなくゼロに近いだろう。
何せ理由がない。
初対面の人間にいきなり今が未来です等という意味の分からない嘘を付く理由が思い浮かばない。
一度落ち着こう。
以前読んだ推理小説によれば。
いくら馬鹿げていたとしても、荒唐無稽でも、あり得ないものを取り除いた残りかすがまぎれもない――現実だとか。
「……マジか~~……」
――理解が追い付かなくて頭を抱えて蹲ることくらいは許してほしい。
自分の想像力を遥かに飛び越えたトンデモな内容を受け入れることを精神が拒否している。
うわー
ってばタイムトラベルしちゃったのねーなんて三流小説じゃないんだから。
すぐさま納得できるわけもない。
ぐおおおぉぉ……と地鳴りのような呻き声を漏らしながら頭を抱えたまま地面に突っ伏す。
数秒。
そんな傍から見たら不審でしかない自分をじっと見つめ微動だにせずいる男の存在にようやっと意識が向き、のろのろと据わった目のまま視線を向ける。
「何だか知らんが落ち着いたかい?」
ここでそんな声掛けができるとは大した人物なのかもしれないと他人事のように
が思っていると。
「あんた記憶喪失か何かかい?自分のことはわかっているようだが」
「……うーん、おそらく、たぶん、そうなの、かも……」
ここで馬鹿正直に時間を超えたっぽいです、なんてことは言えるはずもなく、記憶喪失という設定を提案してくれたのでそれに乗っかることにした。
ん?いやいや、そもそも
元から記憶喪失だった。
「よし、だいぶ混乱しているみたいだし、麓の街まで送ってやろう!」
「いや結構です?」
突然の振りに反射的に言葉を返す。
すると闇慈は手に持った厳つい扇子でぽんとひとつ膝を叩き、ニカッと笑った。
どうでもいいが役者みたいな所作だ。
「遠慮すんなって!怪我人を置いていくのも気が引けるしな!」
「いや、だから」
何故人の話を聞かない、しかもまさかついてくる気か、と困惑する。
本気で厄介なのに絡まれてしまった。
しかも善意でそうしようとしているところが更にたちが悪い。
辟易する
を気にする素振りも見せず、開いた扇で口元を半分ほど隠しながらがははと笑う。
それを白い目で見やりながら、どうしたものかと逡巡する。
今は街に行くよりもメダルの反応を追いたい。
仕方がない、途中で撒くか。
半ば諦めつつ、心の中でひとりごちる。
ひとつ息を付き、闇慈に向き直る。
「あともう一つ教えて欲しい――終戦時の、聖騎士団の団長の名前は分かる?」
これが確認できれば。期待通りの名であれば。
その問いに闇慈は確か…と思い出すような素振りを見せ、そして口を開いた。
「カイ=キスクとかいう御仁だな」
――ああ、よかった――
ふふふ、と無意識に笑いが漏れた。
深い森だ。
同行すると渋った部下達を先にパリへ帰らせて正解だったようだ。
いくら元聖騎士で戦闘力の高い者達であるとはいえ、この悪魔の棲むの森にいるとされる強力な自立型のギアには幾段劣るはずだ。
それに視界も悪い。磁場もおかしいのか、方向感覚も狂っている気がする。
ざわざわと頭上で葉が擦れ合う音が波のように遠ざかってゆく。
陽の光は細々と降りてくるだけで、辺りは明け方のような暗さが広がる。
生き物の気配は不自然でないくらいにはある。
鳥に小動物、虫…生態系がおかしい様子は無い。
言ってしまえば普通の森だ。
だというのに、焦燥感を掻き立てるようなこの雰囲気はなんだ。
歩を進めながらも、辺りの警戒は怠らない。
道中、この森に近付くにつれどこか落ち着かない気持ちになっていったのも、気のせいではないのかもしれないと少しオカルトじみた考えも浮かんでくる。
この森に何が待ち受けているというのか。
その噂の人を傷つけないというギアか。
それともまた別の――
「……貴方は……」
思考を打ち切り、眼前に現れた姿へ静かに視線を移す。
知った顔だった。
黒いロングコートを伊達に着こなす偉丈夫――指名手配犯の空賊の男だった。
「国際警察機構のお出ましたぁ無粋だねぇ」
「……公務で来たわけではありません」
ほう?とおかしげに口端を上げる男に対し、カイは気取られないよう半身を引いて間合いを取る。
「いやはや、存外行動力があるようだな――お前さんの探し物がここにあるとでも?」
「それを見極めるためにここに来たのです」
いつでも柄に手を掛けられるよう指から力を抜く。
ぴり、と張り詰めた空気が漂う。
しかし次の瞬間に相手が声を出して笑ったことでその空気も霧散した。
「はははっ!目の前に犯罪者がいるってのに捕まえようともせず問答するたぁ、あんた、中々面白いな」
よほどツボに嵌ったのか、男はなおもくつくつ笑っている。
カイは引いていた半身を戻し向き直った。
「公務でないと言ったな。そして賞金目当てでもなくただ確認したいだけだと言うんなら――ここは引いちゃくれねぇか」
ぎん、とサングラス越しでも分かるような強い眼差しを向けられる。
彼は飄々とした風で義に厚く筋を通す男だ――故に犯罪者でありながら悪評が無いという稀有な立ち位置を確立している存在だ。
そんな彼が公務でもなくこの先の何かを狙う賞金稼ぎでもないのなら、引けと言う。
理由があるのだろう。
何かがあることを察したが、その何かの中身が分からない。
それで素直に引き下がれるほど軽い覚悟でここに来てはいない。
「何を隠しているか教えていただけるなら、考えますが」
「――いたいけな女の子さ」
一瞬返答に困り、無言でいると。
「俺たちと何ら変わらねぇ、嬉しければ笑って、哀しければ泣く、そんな素直な子さ」
「……どういうことか、説明していただけますか」
男、ジョニーの様子が優しげで悲しげで何かを堪えるようなのが気になり、カイは話の先を促した。