Fortune 55


 ――その日、自分は世界に取り残された。



 燃え盛る炎と煙と血臭に囲まれ、息苦しさで意識が飛びそうになるのを何度もこらえながら剣を振るい続ける。
 もう何体目になるのかすら分からない敵を屠り、また次の一体へと隙を与えることなく雷撃を放つ。
 仲間の騎士たちを先に逃がす為、広範囲に及ぶ雷属性の技を連発し防衛線を死守する。
 物量で押され始めていることは明らかであったが、まだ退けるタイミングではない。
 視界が暗くなりかける度、気力でそれを押し止める。
 音も遠くなり始めた。
 耳鳴りなのか爆発音なのかさえ、もう分からない。
 それでも今ここで倒れるわけにはいかない。
 力に任せ技を放ち続ける。
 皆を守らなければ。
 団長として、人類の希望として、――何より、彼女との約束の為に。
 ――突如、陽の光に似た暖かい色彩が目の前に広がった。
 灰色の空と街と赤茶けた血だけしなかった視界に急に現れたそれに一瞬意識が持っていかれ。
 そうと気付いた頃には更に強い光に飲み込まれていた。
 ――そこで意識は途絶えた。


 まず、薄暗い中にぼんやりと浮かぶ光に気が付いた。
 橙色の柔らかい光。
 天井からぶら下げられた小さなランタンだった。
 ゆらゆらと揺れて見えたのは、どうやら自分の焦点が定まっていなかったからのようだ。
 次いで、先程まであったギアの咆哮や攻撃による轟音が聞こえないことに気付く。
 ふと耳がやられたのかと考えたが、遠くない場所から人の足音や何やら話し声が聞こえはじめ――
「……か……っは……!」
 反射的に体を起こそうとし、胸部に痛みが走った。
 あまりの痛みに息が止まり背中から脳天まで鋭い痺れが突き抜け、意思に反して体が硬直してしまう。
 震える肺と肋骨に鞭打って何とか外気を吸い込み、吐き出す。
 脳と目の奥がじりじりと熱いような圧迫されるような気持ちの悪い感覚に襲われる。
 呼吸を繰り返す内に、僅かだが痛みが和らいだ。
 ようやく酸素が体に行き渡ったのを感じ、いつの間にか固く閉じていた目をゆっくりと開く。
 そうしてやっと、意識がはっきりとしだした。
 今、自分はテントの中の簡易ベッドに横たわっているようだった。
 体の状態を確認する為、指先、腕、脚、つま先と順に神経をたどってみるが、欠損もなく支障はなさそうだ。
 今の痛みは、胸椎か肋骨が折れたのか、いや、自力で呼吸できるということは折れているわけではあるまい、と結論付ける。
 ちかちかと目の前を白い点が舞って見えるのは、おそらく失血によるものだろう。
 体のそこかしこが痛むが、さほど重傷ではなさそうで嘆息した。
 そうこうしている内に、テントの向こう側から誰かが近付いてくる気配がし、幕布が捲られたのでそちらに視線を向ける。
 救護隊員だった。
 戦闘要員ではないが、後方支援部隊に組み込まれている彼らは命の砦であり戦場における最重要部隊だ。
 その隊員は一度外に上半身だけを出し周りに何事か小さく叫んだ。
 そしてすぐに慌てた様子で駆け寄ってきた。
  御無事で何よりです。
  意識ははっきりしていますか。
  体に違和感はありませんか。
  痛みの強い部分や感覚がおかしい場所などはありませんか。
  ああ、急に動いてはいけません。
  今はご自分の体が……
 そんな言葉を聞きながら大丈夫、問題ない、とゆるりと頭を振る。
 意識はある。体も大きな問題ない。
 だが何か、嫌に寒かった。
 血を多く失った影響だろうか。
 思考が追い付かないままぼんやりしている間に、周りには救護班のみならず負傷した騎士達が輪を作るように集まってきていた。
 皆自分が目覚めたことに喜んでくれているようだった。
 そんな彼らを見渡せば、皆軽くない傷を負った満身創痍の様子で、今回の作戦が今までになく苛烈であったのだと理解でき、その中で皆よく頑張ってくれた、と労う感情が浮かんできた。
  ――住民の避難は終わりました。
 誰かが言ったその一言に心から安堵した。
 人を守ることこそが我ら聖騎士団の最たる役目。
 それを遂行できたのであれば、戦場で多少無茶をしたことも、無駄ではなかったと思える。
 そこでふと、自分はどうやって帰還したのかと疑問に思った。
 自分の足で辿り着いた記憶はない。
 では、誰が――?
 そばに立つ団員から、もう一度無事で良かったです、と感極まった言葉をかけられ、それに笑顔を返した――つもりだった。
 だが、目の前の団員の表情がくしゃりと歪み、悲痛な面持ちで視線が逸らされたことで、何か変だったか、と無意識に顔に手を当てる。
 自分の手は震えていた。
 そしてとても冷たかった。
 ――無意識を装って目を背けていた。
 認めたくなくて。
 何かの間違いで。
 そんなことがあるわけないと、考えることを拒絶していたその可能性。
 じわじわと不快でおぞましい何かが体を侵食していく。
 抗う術はなく、ただ無慈悲にその現実の前に跪かされる。
 自分が生き残ったことを喜ぶ仲間の騎士たちの姿。
 その中に――彼女の姿はなかった。
 今度こそ本当に、音が消えた。
 ――本当は、鮮明に覚えていた。
 陽の光のような、暗いものをすべて吹き飛ばさんばかりの光を纏う、彼女は。
 最後まで笑顔だった、――と。


 何も言葉を発さず表情を凍りつかせた団長の様子に気付き、周りの団員達の歓喜の声は波が引くように消え失せた。
 此度の作戦で帰らなかった仲間は幾人もいる。
 すでにここに集まる前から嗚咽を漏らし涙していた者もいる。
 だが、その彼らも今この瞬間、更なる胸の痛みに息を呑んでいた。
 聖騎士団の名のもとに剣を振るう彼は、まさしく人類の希望だった。
 戦場では阻むことを許さぬ鬼神の如く、だが民へは慈愛溢れる天使の如く、人々の求める救世主そのものと言って過言ではない青年。
 それがカイ=キスクその人だった。
 しかし今の彼は、直視に堪えぬほどの悲壮さだった。
 感情が抜け落ちたかのようにその表情には何も浮かばず、もとより白い肌からは血の気も熱も生気すべてが引いてしまったようで。
 何よりも痛々しかったのは、ただのひと粒も涙を流していないことだった。


 ふと、急に意識がクリアになったのをカイは感じた。
 周りの仲間たちを見ようと、俯いていた顔を上げる。
 すると誰も彼も、とても悲しそうな顔を向けてくる。
 そうだ、彼女は皆に好かれていたのだ、と彼らの表情を見て思い至る。
 辛いのは自分だけではない。
 とても胸が痛む。
 けれど、自分ばかりが悲しんでいてはいけないのではないだろうか。
 そんなことを考え、頭が冴えていく気がした。
 そして、酷く心が静かになっていった。
「……カイ様、少しお休みになられた方がよろしいかと」
 援軍として到着していたベルナルドが一歩進み出てそう言った。
 確かに、身体はふらつくし頭も痛い。
 情けなくは思えたが、その進言を甘んじて受けることにした。
 ベルナルドが号令をかけると、皆ぞろぞろとベッドの周りから立ち去って行った。
 こちらを気にしている様子で退出していく彼らを見送りながら、やはりこの姿は団長として情けない、気を引き締めねば、と冷静さを取り戻した頭で考えていた。
 すると、ベルナルドだけが戻ってきた。
 医師の診断を伝えにきたらしい。
 予想通り、骨折・裂傷はなく、打撲と裂傷が痛みの原因とのことであった。
 不幸中の幸いですね、と冗談交じりで漏らすと、厳しい目を向けられた。
 そうれもそうだ、今回の怪我は己の力不足が招いた結果なのだから、もっと反省せねばなるまい。
 そう考えていると、飛空艇への引き上げが開始されると告げられた。
 どうやら自分の目が覚めるまで待ってくれていたらしい。
 反省の種は尽きないが、とにかく今はまだ作戦が続行中だ。
 これ以上皆に迷惑をかけないよう、せめて自力で艇に戻らなければ。
 そして、ベルナルドの手を借りながらではあったが、自分の足で司令官室へと戻ってきた。
 司令官席ではなくそのそばのソファに自分を座らせると、一拍置いてベルナルドが口を開いた。
「この作戦の詳細な被害報告は後程お持ちします」
「ええ、お願いします」
 淀みなく受け答えした自分を静かに見下ろす彼の視線が何故か居心地悪かった。
「……今はご自分の傷を癒してください」
 静かにそう言い、ベルナルドは退室していった。
 轟々と離陸準備のためのアイドリングが始まった。
 しばらくソファでじっとしていたが手持ちぶたさを感じ始める。
 この作戦は大規模なものだった。
 詳細な資料を残すことで未来の戦略の役に立つだろう。
 しかし今回は自分も前線にいた為大まかな戦局しか把握していない。
 他の隊の報告書を待ってまとめるしかないか、とひとつ息をつく。
 ……この部屋はこんなに広かったか。
 ぐるりと何の気はなしに司令官室を見渡してみる。
 なるほど、この席からの眺めはあまり見たことがなかったから新鮮だ。
 隊長であった頃はこの部屋に入ることはあっても起立で報告をすることばかりであったし、団長に就任してからは奥側の席が定位置になっていて。
 ここにいたのは――
 ――不意に、胸が詰まった。
 落ち着いていたはずなのに、また手が震え出した。
 振り払うように頭を振る。
 その時。
 床に落ちているものが目に止まった。
 奥の控室に続く扉の前。
 ちらりと光を反射したそれが気になり、体の痛みを堪えて近寄る。
 鎖の切れたロザリオだった。
 拾い上げ、――その持ち主が分かった瞬間、弾かれるようにドアを押し開けた。
「――!?」
 しかし彼女の姿はなく、がらんとした暗闇があるだけだった。
 すぐさま司令官室に戻るが、同じことだ。
 ――震えは全身に伝染していた。
 頭の奥が震え、視界が滲む。
 感じたことがないほど、胸が苦しい。
 名を呼んでも返事がないのは、分かっていたはずなのに。
「……う……っ、ああ……!!」
 その場に崩れ落ちるようにへたり込み、ロザリオを両の手で握りこむ。
 がちがちと音を立てる歯列の隙間から抑え切れない声が漏れる。
 ――目を覚ましてすぐ、彼女の気配がないことに気が付いてしまった。
 彼女はどこにいるのか、問おうとしたが救護隊員の表情で理解してしまったのだ。
 ――が、ここにいないことに。
 足元から世界が崩れていく。
 比喩ではなく、現実に、今まであった彼女という日常が、崩壊してしまったのだ。
 倒れ込むように壁にもたれかかりずるずると床に座り込む。
 彼女が残したそれを祈るように握りしめ、額に押し付ける。
 一番守りたかった人を、守れなかった。
 彼女は自分を守ってくれたというのに。
 その命を懸けて。
 自分だけがまだ生きているなんて、そんなことがあっていいはずない。
 これは悪い夢ではないのか。
 いつものように、こちらの都合などお構いなしの騒々しさでこの扉を開けて入ってくるのではないか。
 そして、勘違いした自分に呆れて、馬鹿だなとでも言いながら暗い気持ちを笑い飛ばしてくれるのではないか。
 しかしいくら待てども彼女は現れない。
 拳を握り、壁に打ち付ける。
 感じるのは痛みだけ。
 不意に最後に触れた彼女の温もりが蘇り、激昂する。
 ――世界は何も応えてはくれなかった。


 今も夢に見る、その日のこと。
 カイは目的地へ向かう馬車の中で伏せていた目を開けた。
 ついうとうととしてしまっていたようだ。
 それの存在を確認するように胸へ手を当てる。
 あの日以来、カイはこのロザリオを片時も離せずにいた。
 記憶の中の彼女の年齢もとうに超えてしまった。
 もう8年にもなるのか、と窓の外を流れる景色を見て、思う。
 ――あの後、分析班が戦場を調査した際も、彼女の遺体は見付からなかった。
 その為行方不明扱いとなっている――他の騎士らの希望も多く、今でも。
 誰も彼女の死を確認できていない。
 確認していないものを認めたくなかったのだ。
 例え状況的にそう結論するしかなかったとしても。
 自分もそうだ。
 あの日のことは正真正銘悪夢だった。
 だが、その悪夢が自分を生かしたのだとどこか冷静に考えていた。
 絶望の思いで沈み込んだ自分を立ち直らせてくれたのも、その悪夢の中で彼女が言った言葉だったからだ。
 自分は彼女に生かされた。
 思い返してみれば、彼女は死というものを本当に嫌っていた。
 死ぬ気で、とか、命を懸けて、等と口にすればそれはこっ酷く叱られた。
 『守る覚悟があるなら――自分の命ごと、守ってみせろ』
 それを言った貴女が姿を消してどうするんですか。
 必ず生きて帰ると約束したではないですか。
 言い出しっぺが実行できなかったら格好悪いと言ったのは貴女ですよ。
 だからきっと――彼女は生きている。
 単なる言葉の上げ足取りかもしれない。
 でも、そう信じることで、立ち止まらずに進むことができた。
 『カイは、生きて』
 生きろというのが彼女の願いならば、そうしよう。
 その代わり、貴女の生を望み続けよう。
 それくらいの我儘は許して欲しい。
 この自分の内面は誰にも見せずにきた。
 終戦まで、更に技を磨き、自分の思い描く正義に尽力することで、自己を保ち続けた。
 自分の心が少しずつ凍っていくように感じたが、喜怒哀楽が無くなるわけではなく上手くコントロールできるようになったのだと思っている。
 終戦は呆気なかった。
 ジャスティスの潜伏地が判明し決戦に臨んだその地で、既にジャスティスは破壊されかけていたのだ。
 一体何が起こって、何者がこれを……と到着した部隊は騒然としたが、こんなことをできるのは封炎剣を持つあいつだけだろうと自分だけが理解した。
 その後ジャスティを次元牢に封印し、晴れて世界は終戦を迎えた。
 皆この世に生まれ落ちた時にはこの世は既に戦場だった――それが終結したのだ。
 世界は喜びに満ち溢れた。
 全世界的に人口が著しく減少し、多数の都市が、国が壊滅したが、これから復興していくことが約束されたような活気だった。
 自分も心から喜んだ。
 喜んだが、すぐに戦後の治安を維持することの重要性に気が付き、休む間もなく国際警察機構に転籍し職務に従事した。
 それまではギア相手の戦闘行為が主であったが、今は人と向き合い、人の起こす事件を解決している。
 余程今の方が難しい仕事だと頭を抱える時もある。
 そんな生活が続くこと数年、ちょうど1年ほど前に世界に再び緊張が走った。
 ジャスティス復活の予兆。
 次元牢の綻びか、ジャスティスによる内からの力が原因か、理由を究明するより先に対策が練られた。
 第二次聖騎士団選考会。
 単に戦力が必要であれば、我ら元聖騎士を再招集すればよい。
 それなのに、わざわざ回りくどいやり方をすることに疑念を覚え、自分でも滑稽な事態だとは思いながらも、その選考会という名の闘技会に参加した。
 ――そして奴と再会した。
 はっきり覚えている、あいつの心底蔑む目。
 あの日ローマで彼女が消えたことをどこかで知ったのだろう。
 奴は罵倒するでもなく、抑揚なく吐き捨てた。
 『……今のてめぇの腑抜けた面を見て、あいつはどう思うだろうな』
 腑抜けたとはどういうことだ、と奴に掴み掛かった。
 私はあの絶望の思いから自分を奮い立たせ、皆の望むような戦果を上げ、聖戦を終結させ、今は自分の正義のもとに人々の為に生きている。
 何も恥じることのない生き方をしてきたつもりだ。
 それをあいつは、まるで彼女が今の私を見たら落胆するかのような言い方をした。
 自分が馬鹿にされたように感じたのか、それとも彼女のことを持ち出されたからなのか、その両方か、私は激しい憤りを感じた。
 半ば反射的に奴に掴みかかったが呆気なく払われ、そんな自分が酷く情けなかった。
 奴には、過去に囚われ縋りついているように見えたのだろう。
 だが、立ち止まっていると言われようと、これ以上どうしようもなかった。
 彼女の願いに応えてきたつもりだった。
 この生き方を否定されたように感じて、今までなかった迷いが生じた。
 もやもやとしたものを抱えながら、しかしその日2度目の衝撃を受けた。
 ジャスティスに対峙する――ギアとしての力を解放したソルの姿に。
 ギアは悪だった。
 何故か。人類の脅威だから。
 では、そのギアを破壊したギアは、何なのか。
 『……てめぇで考えろ』
 ソルはそう言い残し、破壊したジャスティスと、棒立ちになった自分をその場に残して消えた――


 ふう、とひとつ息を吐く。
 昔のことを色々と思い出してしまった。
 ロザリオを指で撫でる。
 今も彼女について何か手がかりはないか、情報を集め続けていた。
 しかし行方は掴めないまま時が過ぎて行く。
 ひょっとしたら、彼女はまた記憶を失ってどこかでひっそりと暮らしているかもしれない。
 そんな想像までして。
 それでもよかった。生きてさえいてくれれば。
「――予定通りあと5分ほどで到着します」
「わかりました」
 御者から告げられ、思考を切り替える。
 既に先程から目的地は見えていた。
 悪魔の棲む森と呼ばれる場所――人を傷付けないギアがいるという噂の真偽を確かめる――そこに自分の迷いに対する答えがある予感がしていた。