気怠く揺蕩う感覚から、呼び起こされる。
「……!……――!」
10歳くらいの小さな少女が誰かを呼んでいる。
少女の視線の先には大きな人影があった。
駆け寄り服の裾を掴むと、掴まれた人は一瞬怪訝な様子を見せつつも、無骨な仕草で少女の頭に手を置いた。
ここが窓際だからか、見上げた先の顔は逆光で見えなかった。
ただ髪の色だけ分かった。
日の光を弾くような焦げ茶色。
外から吹き込む風に短いそれが微かに揺れる。
少女の手の先、掴んでいたのは使い込まれた風合いの白衣だった。
「――」
後ろから、その少女の――自分のことだと判断した――名が呼ばれ、そっと振り返る。
視線の先、ここよりも薄暗い部屋の入り口に立つその人も白衣姿だった。
だが今自分が握りしめている白衣を着るこの人とは大分雰囲気が違った。
その人は線が細く、日陰で浮き立つほど髪も肌も不健康に白い。
「――」
もう一度、今度は先程よりもゆっくりと呼ばれ、少女は渋々白衣を握る手を放した。
放した自分の手から伸びる腕には、肩にかかる位置まできっちりと包帯が巻かれているのが見えたが、何故だろうとは思わなかった。
ただ、うんざりするような、溜め息をつきたい気分になっただけだった。
忌々しげに自分の腕を見下ろしていると、不意に反対の手を取られた。
ひんやりとしたその人の手に不意にびくりと肩が跳ねる。
「――さあ、行こうか」
その言葉だけが少女の耳にはっきりと聞こえた。
吸い込んだ空気は少しひんやりとしていた。
頬に触れるものの感触から、ここがベッドの上ではないことは分かった。
もう一度息を吸う。吐く。
湿った緑の匂いだ。
そう知覚し、ぼんやりしていた脳内が段々とはっきりしてくる。
だがまだ目は開けられそうになかった。
重たい。
瞼だけではなく、からだ全体が動かなかった。
金縛りとは違う、ただひたすら、怠い。
風邪をひいた時の倦怠感に貧血の痺れるような虚脱感を混ぜ合わせたような……そんな分析をしてみるが余計にしんどく感じるだけだった。
そう考えを巡らせている内に、徐々に体の感覚も目覚めてきた。
しばらくじっとしていると、からだ中が痛いことに気が付く。
あれ、一体――
そこでようやく、弾かれたように起き上がった。
「いっつぅ~……!……な、んなんだ、どうしてこんな状態で……」
カラカラに乾いた喉から発せられた声は酷く掠れひっくり返ってしまったが、気にしている場合ではない。
こくり、と唾を飲み込む。
自分が今いる状況が理解できなかった。
飽和量に近いくらいの水分を含んだ空気。
日の光はあるのに遠く、ほの暗い。
――深い森だった。
燃え盛る廃墟と化したローマの街のど真ん中にいたはずなのに。
は混乱する頭を押さえ、目を閉じて心臓を落ち着かせる。
触れる先にある自分の身体の傷や法力の残り具合も、作戦中の、そのままだ。
何故全く覚えの無い場所にいるのか経緯が分からない。
「……カイ?」
そうだ。
彼はどこにいる?
再び焦りだした心臓を無視し、へたり込んだまま辺りを見回す。
だが広がるのは影の落ちる緑のみ。
生き物の存在は感じるものの、人の気配は感じられない。
胸元に手を当てると、通信用のメダルが定位置に収まっていることに気が付き、混乱の中ほっとした心地を得た。
これでカイや他の仲間達の居場所がわかるだろう。
急いでそれを取り出し、少し歪んで開き辛くなってしまった蓋としばし格闘してから、溜め息と共に中を覗く。
そこには――
「……駄目だ……壊れてる……」
表示は生きていた。
だが、映し出された文字を見て項垂れてしまった。
あの時、強力な磁場でも発生したのか計器が狂ってしまったのだろう。
手懸かりになりそうな唯一のものがアテにならないと分かり、全身から力が抜けた。
身体が酷く痛むことを思い出し、仰向けでまた倒れ込む。
雨上がりのような緑のにおい。
遠くに聞こえる森の生き物たちの声。
背の高い樹木たちの枝葉の隙間から射し込むか細い木漏れ日。
投げ出された彼女の手に握られたメダル――その文字盤に記されていたのは、2181年という文字だった。
数分、そうしていると、近付いてくる何かがいることを感じ取った。
人の足が草木を踏みしめる音。
向こうはこちらの存在に気が付いていないようで、
に向かってきているわけではなく、側を通りかかっただけのようだった。
はその何者かに危険性はないと判断し、むくりと音を立てずに上半身を起こした。
少しでも情報を得る為、接触してみようと試みる。
「――あの、すみません」
向こうにしてみれば無人と思っていた場所で急に人の声がしたせいだろう、その足音は分かりやすいほど動揺した様子で足を止めた。
離れた場所にいるだろうその人が反射的に逃げなかったことを幸運に思いながら、続けて声をかける。
「怪我をしているので座ったままで申し訳ないんですが、ここからローマに行く方法を教えてもらえませんか?」
相手の姿はまだ見えない。
警戒されることは百も承知だったので、敢えて座り込んだまま、こちらから近付くことはしなかった。
これで怖がられてこの場から去られたら、それはそれで仕方の無いことだと割り切った考えをしつついると。
ぱき、と先程よりも近い場所から枝の折れる音が小さく響いた。
良かったツイてる、と思いながらそちらをゆっくりと向き、不覚にも、息を飲んでしまった。
青い長い髪の美少女だった。
足音の感じから子供か女性だとは思っていたが、まさかこんなにきれいな子がいるとは予想していなかった。
「怪我……されているんですか……?」
声まで可愛らしいその女性は、赤い瞳にやや怯えの色を滲ませながらそう問い掛けてきた。
木の影に隠れるようにしてこちらを窺う彼女に向け、小さく笑みを浮かべる。
「怪我はその内治るんでいいんですけれど、今は帰らないといけなくて」
「でも、その怪我じゃ……」
「うーん、できれば水場も教えてもらえると助かります。そうすれば後は自力でどうにかしますんで」
「……」
そこでふと彼女は口を噤んだ。
やっぱり怪しいと思われたかな、もしやここはこの人の家の私有地なのかな、そうしたら
は不法侵入したと思われるよな、と不安に思っていると。
「……少し待っていて下さい」
そう硬い声を残し、彼女はきびすを返して足早に駆けていった。
少し慌てたようなその様子から、人を呼ばれるのだろうかと予想する。
だがそれならそれで逆に助かる。
不審者扱いされても身分は証明できるし、そうすれば思ったよりも早く司令部に連絡を取れるかもしれない。
もう一度メダルを見下ろす。
表示は変わらない。
今は2173年だ。記憶違いなどするわけ無い。
そう諦めつつも、メダルを操作し付近の探索をしてみる。
だいたいここは何処なんだ。
ローマ市街の付近にこんなに鬱蒼とした森があっただろうか。
徐々に範囲を拡げていき、もう限界範囲というところで、一つだけシグナルがキャッチされた。
目を見開く。
故障だとしても、今はそれを頼りに行ってみるしかない。
ぐ、と震えそうになる足に力を入れ、よろよろと立ち上がる。
目眩を覚えるが、固く目を閉じ堪える。
一刻も早く合流して、――彼の無事を確かめたい。
「あの……」
不意にかけられた声に勢いよく振り返る。
すると数歩離れた場所で先ほどの美少女がびくりと体を揺らした。
しまった怖がらせてしまった、と冷や汗を感じる。
「ご、ごめんね。ちょっと驚いただけ」
「いえ、あの……立ち上がって、大丈夫なんですか?」
おずおずと問う彼女の手に布と水の入った桶が握られているのが見え、思わず笑みを浮かべてしまった。
「もしかして、それを取りに行ってくれたの?」
「……迷惑でなければ」
「そんなわけないよ。とっても助かる。ありがとう」
そう言うと、少し照れたようにはにかんだ笑顔が返される。
「うあ……」
「?……痛みますか?」
変な声を出してしまい、眉を寄せられてしまう。
「いやあの女同士で言うのもおかしいけれど、可愛いなぁって」
「え……」
言ってしまってからはっとする。
これでは本当に不審者だ。言い訳できない。
「いや変な意味じゃないよ。綺麗だから言いたくなっただけ」
「……そんな風に言われたの、初めてです」
「えー?回りの人間は見る目がないねー」
素直な感想を述べると彼女は困ったように眉を寄せた。
それを見て、触れてほしくないところだったかな、と
が失言の可能性を感じて謝罪の言葉を口にしようとすると。
「酷い傷……」
の腕や脚に走る傷に目を向け、彼女は顔を曇らせた。
「これが効くか分かりませんが……」
言って
を座らせると、その側に膝をつき、彼女は手にしていたバスケットの中から薬草を取り出した。
それは
の知識にもあるもので、消毒作用のある葉だった。
急く気持ちがあることは確かだが、今はこの彼女の厚意を受け取るべきだろう。
きっと怖いのを我慢して戻ってきてくれたはずだ。無碍にしては女というより人が廃る。
そして改めて自身の姿を見下ろす。
確かに酷い有様だ。
制服の端を摘まんでみるが、触ったそばからボロボロと崩れるそれは既に服としても生地としても機能していないことが明らかだった。
座ったまま脱ごうとするが上手くいかない。
生地が脆化してしまった上に血が固まって張り付いているコレにもう一度袖を通せる気もしなかったので、ひと思いに破り捨てる。
もともと生地が弱っていたからか丈夫な素材であったのに苦労せず取り去れた。
覆っていたものが無くなり露わになった傷は左半身――腕と大腿が特に酷く、動いたせいでまた血が滲んできた。
痛いなぁと眉根を寄せながら水で傷口を洗う。
「女の子なのに何故こんな傷を……」
「うーん、世間一般の女の子っていう括りとはちょっと外れてるから仕方が無いというか」
「私から見たら、十分女の子ですよ」
「うわー美少女に口説かれたー」
「……面白い方ですね」
くすくすと笑う様子は可憐という単語がよく似合った。
美少女、と表現したが、彼女の外見年齢は
よりも少し上のようだった。
それでも少女と言ってしまうのは、あまりに清廉なその雰囲気故だろう。
黒い修道服のようなシンプルな衣服によって、それは更に引き立てられているように思えた。
「お水もどうぞ」
「ありがとう~喉からからだったんだ」
彼女の心地好い気遣いと丁寧な手つきにどきどきしてしまう。
あれ、
にそっちの気は無いとこの前思ったばかりなのに。
そこでふと、思考が止まる。
……この前、って……いつだっけ?
自分でそう思ったはずなのにその先を思い出せず、脳内で首を捻った。
そうして黙ったまま手当てを受ける
へ女性は遠慮がちにちらちらと視線を向けては外しを繰り返していたが、思考に集中してしまっている
はそれに気が付かなかった。
数秒後、意を決したように女性が口を開いた。
「……どうしてこんなに深い場所にいたんですか?」
ずっと聞きたかったのだろう。
会ったその瞬間から今までずっと、親切にはしてくれても一定の距離感で線を引き続ける彼女の様子を、
は感じ取っていた。
「……正直言うと、
も分からないんだ。実はここがどこなのかもさっぱりだし。
――仲間を、助けようとしたんだけれど……気が付いたらここで倒れてた。
本当はローマにいたはずだったんだけれどね」
「ローマ……ずいぶん遠いですね」
「え?そうなの?」
「たぶん、馬車でも一日二日では着きませんよ」
「えぇっ!?」
告げられた内容に愕然とする。
は一体どうしてそんなに離れた場所にいるのか。
急激に顔色を悪くしていく
に、女性は気遣わしげな視線を寄せる。
「その仲間の方もきっと心配していますね」
「うん……あいつも、無事だといいんだけれど……」
思い返すのは最後に見た彼の表情。
傷付いたような怒ったような顔をしていた。
怪我自体の心配はなくなっただろうけれど、まさか最後の自分のあの術に巻き込んでしまってはいないだろうなと今更ながら不安になる。
いやいや、そんな初歩的な間抜けな失敗は、して、いないはず……段々自信がなくなってきた……
「……大切な方、なんですね」
「え?」
「そんな顔ですよ」
「え、いや、うーん……」
邪気のない微笑みを向けられ、面食らう。
ぽりぽりと無意味に頬を掻きながら視線を明後日の方向へ逸らすと、彼女はまたくすくすと笑った。
「本当はしばらく安静にした方がいいとは思うんですけれど……」
言って、最後のひと巻きを終え結び目を作ると、彼女は立ち上がった。
「――南西の方へ真っ直ぐ進むと小川が流れているのでそれに沿って下ってください。
その先に一番近い街へ繋がる街道があります」
すっと森の奥を指差し、その街道を東に向かえば街に着くと告げる。
彼女の顔にはどこか悲しいような色が浮かんでいた。
は疑問に思いながらも、同じように立ち上がる。
「色々ありがとう。落ち着いたら、またお礼しにきてもいいかな?」
「……ええ、私もまたお会いしたいです」
「じゃあ約束ね。また会いにくるよ。
は
。あなたは?」
「私は、――ディズィーといいます」
「花の名前みたいで可愛いね。そうそう、ディズィーも女の子なんだから明るい内に家に帰りなよ。
じゃあ、またね!」
余計なお世話かもしれないがそう言い残し、
は手を振りながらその場を後にした――背を向けた後、彼女――ディズィーが泣きそうな顔で去って行く
の姿を見つめていたことに、気が付かないまま――