諦められずに、足掻いて、手を伸ばし、そしその手を――
背後を取られたと気付いたのが先か、死を感じたのが先か。
奥義と自負する最大法術を放った直後の今、完全に隙を突かれてしまったのだと遅れて理解する。
次いで漠然とした死という概念とそれに伴うだろう痛みや苦しみを想像して鋭利な恐怖が胸を掠める。
生きることを諦めたわけではない。
だが、悟ってしまった。
体はとっくに限界だった。
気を抜けばその瞬間に崩れるだろう。
いつの間にか降り出した雨粒のひと粒ひと粒すらを重く感じる。
頭上から自分に引き寄せられるように降ってくる斬撃を目に写して。
――市民の避難の時間は十分稼げたはずだ。
少しでも多くの民が逃げられたのであれば、自分一人の命で済むなど安いものだ――
そう覚悟を決めかけて。
――駄目だ。
浮かんだのは彼女の姿。
笑ったり、呆れたり、怒ったり、忙しく表情の変わる彼女に振り回される日々は慌ただしく、戸惑いながらも、いつの間にか自分も彼女につられ、笑い、共に過ごす中で喜びも痛みも知った。
そして眩しいほどの強さを持つ彼女に惹かれ。
その影に隠された弱さを守りたいと思った。
――自分が死んだ時、彼女はきっとまた泣けずに苦しんでしまうだろう。
死ぬわけにはいかない。
だが体が動いてくれない。
いつか、一人きりでも人前でも泣くことができない彼女が安心して泣ける場所になりたかった――叶わぬならせめて、この先自分ではない誰かでいい、彼女の笑顔を守ってくれるなら、それでも――
そう祈った――瞬間、自分の名を呼ぶ声が脳髄に響いた。
幻聴ではないそれに、体が震えた。
『生きようとしなきゃ、生き残れないんだ』
歯を食いしばり、声を荒げ、硬直していた体を無理矢理動かす。
避けきれない――が、諦めるわけにはいかなかった。
ほとんど残っていない法力を絞り出し、直撃を防ぐ為の障壁を出現させる。
刹那、空間そのものを突き刺すような光が生まれた。
鼓膜を揺さぶり脳内で乱反射する高く大きな音。
そして、無意識の内に固く閉じた瞼越しにも届く強烈な光によって瞬間的に平衡感覚が奪われる。
熱いのか冷たいのか痛いのか生きているのか。
――そして、数瞬か数秒か、短く長い時間が過ぎ、脳内を暴れ回るあらゆる刺激がゆっくりとおさまっていった。
は、と息を短く吐き、湿った冷たい空気を吸い込む。
生きている、と気付いた。
強い光に晒されたせいで焦点が合わない視界を回復させようと目を細める。
まず知覚できたのは、目の前に広がる明るい色だった。
それは覚悟していた生々しい赤でも昏い闇でもなかった。
陽の光のように柔らかで、この戦場に似つかわしくないとすら思ってしまった、美しい色。
光が揺れて、靡いて……その正体が分かって愕然とした。
いつも結ばれている長い髪が今はほどけ、吹き抜ける風と吹雪の中で舞っている――この場にいるはずのない、彼女だった。
そうだ、彼女の声を自分は確かに聞いた――
「
!!」
――氷が割れ砕ける不快で繊細な音。
――身体が崩れ落ち地面に倒れる音。
声が割れるのも口から血が流れるのも構わず、名を叫ぶ。
血や雨をたくさん吸い込んだ地面に両膝を付き、彼女は肩で荒い呼吸を不規則に繰り返している。
今すぐ駆け寄りたいのに、今のカイにはそれができなかった。
流れた血が多すぎたのか、体がほとんど言うことを聞かない。
そこでやっと、自分が地に倒れ伏していることに気が付いた。
それでもどうにか上体だけでも起き上がらせようと既に感覚のない腕に力を込める。
今の一瞬、
は自分とギアを隔てるようにブリザードを起こしたのだ。
そして、おそらく――
「……さっき一瞬受け入れようとしただろ、まったく……」
ぱきぱきと音を立てながら、霜がかった氷の破片が二人に降り注ぐ。
遠距離からの術だけでは攻撃の勢いを殺せないと判断した
は、術の発動と同時に地を蹴った。
先に生み出したブリザードにより勢いが削がれたその隙に間に割り込み、直接、ギアの攻撃を防いだのだ――自らに気と氷を纏い、盾と化して。
そして今、襲いかかってきたギアをはじめ周囲を取り囲んでいた群れは全て凍結、沈黙していた。
とさり、
がやたらと軽い音を立てて地面に座り込む。
見れば、彼女の体は半分凍りついていた。
「何て無茶なことを……っ!」
――攻撃を防いだ瞬間、強力な術の威力が
自身をも飲み込んだのだと分かってしまった。
「……こっちの台詞だよ。一人で残るなんて馬鹿じゃないの……」
再度氷の砕ける音が響いた後、ぎこちなく振り向いた彼女はそう低く呟いた。
の体には白い霜が被っていて、肩と大腿に深い裂傷が覗いていた。頬にも切り傷ができている。
そしてぱりぱりと音を立て、ケープやコートの裾が脆化したように細かくひび割れ崩れていった。
息を飲むカイの表情で自分がどれだけ酷い格好になっているか察しがついたのだろう、
が口元に苦笑いを浮かべた、ように見えた。
数秒とはいえ極低温の冷気に曝された体は動かすのもひと苦労で、細胞が固まったようだと彼女は感じていた。
痛みが無いのが地味に怖いなぁと他人事のような感想を抱く。
辛うじて力の入る腕を地面に突っ張り、体を引き摺るようにしてカイに近付く。
そして、至近距離で見た彼の様子に顔を歪めた。
自身も満身創痍だが、カイの状態は更に酷いものだった。
一体どれ程の数のギアを相手にしていたのか。
だが今は考えるより先にやることがある。
は呼吸を整えつつ、気を練る。
「っ
、早く逃げて下さい……っ!
まだ辺りには、ギアが」
ごふ、と鮮やかな色の塊を吐き出し、カイは咳き込んだ。
身体中が痛むのだろう、小刻みに全身を震えさせながら苦悶の表情を浮かべる。
彼の肩を支え、呼吸しやすいように横向きにさせる。
その拍子にびしゃりと音を立ててまた吐き出された赤い色を見て、ぎゅっと口を引き結ぶ。
「……諦めるなよ」
はカイの懇願のような声を一蹴してカイの肩に置いた手に力を込める。
「生きることを諦めんな」
もう一度言い、
はカイの体に走る一際大きな裂傷にもう一方の手をかざす。
「帰らないと。本部に、みんなのところに」
橙色の薄い光が心地よい温かさでカイの体を照らす。
いくつかの擦過傷が徐々に薄くなり治っていくが、その深い傷からの出血の状態は変わらない。
自分の扱える気の力による治癒では、内蔵にまで届いてしまっているだろうこの傷に対しては気休めにもならないことなど、
にも分かっていた。
冷たい焦燥感が背筋を駆け上がり、からだ全体を侵食していく。
そしてカイの手が治療を続ける
の手に重ねられた。
その予想外の温度の無さに
の心臓がびくりと大きく震える。
「……貴女には、ちゃんと伝えたいことが……」
「そんなの、また後で聞いてやる」
「……今度は、逃げるのはなしですよ……」
ぼそりと恨みがましく言われ、
はこんな状況だというのに急に可笑しくなってしまい、笑い声を漏らした。
「はははっ……て、いてて……あー、それは……――!」
――瞬間、気配を察知する。
遠くからの地響きに、焼ける空気を震わすような咆哮。
それはこちらに向かってくるようだ。
カイの表情にも緊張が走る。
重ねられた彼の手に力が込められるを見下ろし、
ははっとしてからゆっくりと瞳を閉じた。
打ち付ける雨と失血により冷え切った手だが、その奥にじんわりとカイの体温を感じる。
華奢だの細いだの女子も羨むだのと散々な言葉を言ってきたが、改めて触れた手は自分のものより随分大きいのだと知った。
締め付けるように胸が苦しくなり、ああ、と答えを突き付けられた思いがした。
目を背けて気が付かないふりをしていればいつか消えるだろうという考えは間違いだった。
こんな状況で思い知るなんて、いやだからこそか、と自嘲する。
自分の中でいつの間にか成長してしまっていたその感情からは、もう逃げようがなかった。
それを悟った今、またカイに嘘をついてしまうことがとても悲しかった。
彼の口元の血を拭う。
ひと呼吸、肺に染み込ませるように深く大きく空気を吸い込む。
そしてカイの手を握り返した。
「……
は大切なものを守りたかったから……突き放して逃げることしか選択できなかった。
――だから、守りきらなきゃ、意味がなくなるんだ」
辛いだろうに、それを堪えて真っ直ぐに見上げてくる彼に向け、心からの偽りのない言葉を伝える。
その最後に、ごめん、と一言付け足して。
そして、――口付ける。
瞼の向こうでカイが目を見開いたのを感じ取る。
だが今は気を乱すわけにいかなかった。
繋いだ手にぐっと力がこもる。
そのまま彼は大人しくなり、
のこの行動が何の為のものか理解したらしかった。
カイが負った怪我は自己治癒力を高めるだけでは足りないほどの重傷だった。
その為、失い足りなくなった分のエネルギーを外部から――
の体から、直接流し込んでいる。
これは単純に自身の気を与える行為である為、与えた分だけ、こちらも失う。
はっきり言って効率がすこぶる悪い方法だ。
10渡す為にこちらは20を送り込まなければいけないという具合だ。
だからできる限りエネルギーが逃げないよう、きつく唇を合わせる。
急ぎすぎないよう慎重に力を分け続け、時間が経つにつれ自分の体に疲労感が溜まっていくのが感じられた。
指先が小さく痺れ出す。貧血の感覚に近いかもしれない。
この方法が可能なことは知っていたが、実際に自分で試したことはなかった。
だから後になって何か影響が出るのか出ないのかすら判らない……だが、今のこの状況でそんなことも言っていられない。
今できる彼を助けられる方法はこれしかなかったのだから。
そして自分の分の力を少しだけ残して、
は唇を離した。
今度は反対に
の息が上がっていたが、カイの顔には血色が戻りかけ、出血も見る限りは止まりはじめていた。
良かった。ひと先ず、命の危険は避けられただろう。
固まり瞬きもせずに見上げてくるカイに微笑みかけ、
はふらりと立ち上がる。
「……
……貴女は……」
「……最初は何で、って不思議に思ったけど……うん、嬉しかったんだと思う。
カイに会えて、本当に良かった」
微笑みのまま見下ろしてくる
に、カイは彼女がやろうとしていることを直感的に察した。
「何を考えているんですか、
……!」
「……まだ動けないでしょ。メダルは――あるね、なら見つけてもらえる」
――地響きが、近付く。
もうすぐそこに。
「ごめん、さっきの後で、っていうの……もしかしたら無理かも」
半身を音の主の方へ向け、
は静かに辺りに気を張り巡らす。
だがその力はいつもより頼りない。
カイは必死に体に動けと命令する。
「駄目です
!
自分で言ったではないですか!諦めるなと!
私のせいで貴女まで……っ!」
言い終わる前に咳き込むカイに
の柔らかな視線が落とされる。
「大丈夫。お前は死なせない、し……
だって生きる為に足掻くよ。死にたいわけじゃないし。
それにこれはカイが気にすることじゃない。
が自分でそうするって決めたんだから……って、ああ、そっか。
カイが言ってくれたのも、こういうことだったんだな……ごめんな、気付くのが遅くて」
迎え撃つのは、触れた瞬間に物質の時を止める、絶対零度の氷結法術。
こちらに来るのは一体のメガデス級――あれが最後であることを祈るしかない。
どちらにしろ、
はこの大技ひとつを放つのが限界なのだから。
「
!止めてください!」
それでも、守りたい。
「謝ってばっかだけれど……、最後まで自分勝手で、ごめん。
カイは、生きて」
はカイのことを好きになっていたんだ。
好きになれたのが、守りたいと思えた人がカイで良かった。
そして、そんな人に好きになってもらえたことが、こんなにも嬉しくて、勇気をくれるのだと教えてくれた。
大切な存在。
今までずっときっと傷付けてきたし、今もまた傷を残してしまうかもしれないのが悔やまれる。
――でもだから、せめて、何に代えても守りきるんだ。
「
!!」
――カイを巻き込まない距離をとる為、それに向かって歩き出す。
……ああ、結局記憶は戻らなかったけれど、何故かそんなに悔しくないな。
不思議と妙に落ち着いている。
この力もここにきて役に立ってくれたから、持っていて良かったのだと思おう。
寂しいけれど、これでさよならになっちゃうかな。
あんまり神様を信じてこなかった
だけれど、今まで祈らなかった分、カイの無事とこの先の幸せを祈るから、聞き届けてくれるといいな。
冷たく感覚が遠くなった指先をそちらに向ける。
――限定空間固定、大気構造をスキャン、リライト、膨張、気温の急降下――余力はないから失敗はできない――できるだけ丁寧に、迅速に、正確に――接続――指向性を持たせて、呼び、引き出し、増幅させて、走らせる――
――音のない世界。
――すべてが止まった世界。
……違うか、止まったのは
の方か……
どうか、うまくいきますように……
白い世界に歪な紅が浮かび上がる。
――現れて、消えて、今度は――夜の海のような真っ暗闇に意識と体が呑み込まれていくように感じた――