風が吹き、嵐を運んでくる。
聖騎士団の団長並びに団長補佐の両名が国連への招集から帰還し5日が経過した。
相変わらずギアの活動はまったくと言っていいほど見られず、静かな日々は続いている。
もちろんトップが不在の間も聖騎士団の活動は停止するはずもなく、本部はじめ各地の支部同士で連絡を取り合い、敵の動向を必死に探っていた。
だが、これといった情報を得られないまま時間だけが過ぎていく。
騎士団内部ではそのことに焦る気持ちと恐れのような空気が徐々に濃くなっている。
しかし民衆にとっては心と体に負った痛みや傷跡を癒す大切な時間であることに間違いはないのだ。
その証拠に、まだ終わっていないとは誰もが理解しつつ、だが、活気が、笑顔が、ひとつひとつ取り戻されていった。
それは聖騎士団周囲の街も例外ではなく。
荷馬車が石畳のメインストリートをいつもより勢いよく行き来し、道端では子供たちが声をたてて笑いながらじゃれあう。
大人たちがそれをにこやかに見守り、昨日より今日と、人々の表情には明るさが増えつつあった。
そんな街の様子を、
はお気に入りの建物の死角にあるちょうどよいサボり――もとい、休憩場所から眺めていた。
ある一人の例外を除けば今だにこの場所は誰にも見つかっていない。
こんなに気持ちのいい場所なのにどうして誰も気が付かないのだろう、と彼女は疑問に思っているが、そこに辿りつく為には道とは呼ばない場所を通るしかないのだから無理もない。
さらさらと前髪が風で揺れる。
冬に染まりつつある日差しはこの時期にしては幾分強く、こうやって木漏れ日を浴びるくらいがちょうど心地よい。
それを全身で感じながら木の幹に背中を預け、ただぼんやりと街へ視線を向けていた。
もちろん、
とて仕事がないわけではない。
これは息抜き、と喫煙者が一服するのと同じような感覚でふらりとここにやってきたのだ。
だから長居をするつもりはなかった。
ただ、ひとりになりたかった。
自分の立ち位置を再認識しておきたかったのだ。
優しく冷たい風が頬を撫でて過ぎ去る。
こうやって、俯瞰で世界を見つめられれば十分かもしれない、と穏やかに考える。
笑う子供がいて、安心する親がいて、街全体が温かい雰囲気に包まれている。
その陰で暗いものが存在するのも事実だが、それが世界の在り方だ。
うまく住み分けられれば、ある種の共存と呼べなくもない。
そこが不用意に交わるとやがてバランスが崩れ、互いに望まない方向へと物事は転がっていってしまうのだから。
「……だから、
はこれでいいんだよ、ね……本当にさ」
ぽつり。
声に出して呟かれた音は穏やかな潮風に溶け消えるほど小さなもので。
そうして座り込んでいたのも僅か、
は服の埃を払いつつ立ち上がった。
その口元には小さな笑みが浮かべられていたが、表情は陰になって隠されてしまっていた。
「……そんなところにいたんですか」
それは偶然だった。
何かの参考になるかもしれないと思い立ち、過去の戦闘の記録にもう一度目を通しておこうと埃を被った書庫を訪れていた時だった。
梯子に登り資料に手を伸ばし、ふと、はめ殺しの明り取り用の小窓に目が向いた――それだけだった。
瞬間、その狭い視界の片隅によく知るミルクティー色が見えた気がして、急いで梯子を掛け直してから今度はじっと目を凝らした。
通路や他のどの部屋の窓からも死角になるほんの小さな一角に、彼女はいた。
酷く久し振りな気がして、カイは無意識に眉間にしわを寄せていた。
本部に戻ってきてからというもの、
と言葉を交わしていなかった。
正確には、執務上のやり取りはしていたが、それにしたって大層余所余所しい必要最低限のものだった。
距離を置かれた、と現実として理解すると辛いものがあった。
そしてその状態のまま時間は過ぎてゆき、執務と訓練以外、彼女の姿を見ることはなくなっていた。
自分達の変化に気が付いている者も多いだろう。
だが、敢えて皆触れないようにしているようだった。
その理由は、変化の原因に気付いたわけではなく、帰還して早々の
の行動が原因だった。
内容を掻い摘むと、
の国連での振る舞いを茶化した団員が彼女の逆鱗に触れた、ということらしい。
その先の詳細は報告してきた大隊長も口を濁していたが、大体想像がつく。
そうして、彼女は国連での何かしらのせいで機嫌がすこぶる悪い、触れるべかざる、と周囲に認識されることになった。
その結果が今の触れるべからざるの状態だ。
更には、彼女の単独行動は執務・訓練に関わらない休憩や空き時間に限られていて、聖騎士として従事している間はそれまでと同じかそれ以上に真面目であったから、誰かが何かを注意できるはずもなく。
また、当の制裁を食らった団員が作戦行動に問題ない程度の負傷しかしていない(今はもうぴんぴんしている)らしいので、今回は彼女に対しての処罰は見送られている。……ちなみに被害者が加害者だったという証言があったことも酌量されていた。
もしやそれらを見越した上での行動だったのだろうか、と疑問が生まれ、だがすぐに、彼女ならばそれぐらいやってのけるかもしれない、と自分の中で結論が出た。
は過去に「イキバタ出たとこ勝負が
のスタンス」と笑い交じりに言っていたが、その実は慎重で周到な計算の上に成り立っている――彼女に直接確認したことはないが、そうでなければあんな余裕の振る舞いはできはしない。
そしてそれをあたかも自然にそうなったように持っていかせているのだから、彼女の頭の良さには舌を巻かざるを得ない。
だからこそ今、自分は彼女を捕まえられないでいる。
しかしその姿を見つけてようやく、そんな彼女の尻尾の毛先に触れた気分だった。
ひっそりと居心地のいい場所でひとり警戒心を解いている
。
彼女のその様子は、まるで猫のようだと思った。
たった一匹で気高く生きる、猫。
その時ふと、彼女の顔が伏せられたように見えた。
膝を引き寄せ、顔を埋め、じっと動かない。
もしかして泣いてしまうのでは――と心配したが、そうではなさそうでほっとした。
それと同時に、
の泣いている姿を見たことがないことに気が付いた。
泣きそうに歪んだ顔や、泣くより痛々しいような笑顔は何度か見てきた。
だが、人前で涙を流す姿は見たことがなかった。
彼女の強い瞳が脳裏によみがえる。
決して折れまいと、自らを奮い立たせるような――
――もしかして、彼女はひとりの時にすら泣けないのではないか。
唐突に確信めいた考えが生まれ、体温が急降下する思いがした。
ぐ、と梯子に掛けた手を握り締め、
を見つめる。
そんな視線を向けられていると知らない彼女はすぐに立ち上がり、服を整える仕草を見せてからふらりと壁の向こう側へ姿を消してしまった。
カイは数秒その場所に視線を向けたままだったが、やがて小さく嘆息して資料を片腕に抱え床に降り立った。
彼女のしなやかな強さに憧れていたのは事実。
その強さが脆いものだと知ってからも、彼女に対する敬意は変わらなかった。
でも、どうして強くあれるのかを考えたことはなかった。
あれは、彼女の努力そのものだと今理解した。
彼女は幼い頃に保護され、その後旅立ち、ひとりで生きてきたという。
縋ることも頼ることもできなかったのだろう。
それは、周りに、そして――自分自身にも、だ。
自分に甘えられるくらいなら、あれほど強くなれるわけがない。
――酷く胸が痛んだ。
そして、あの夜バルコニーで
が言った言葉がよみがえる。
『
は、ひとりでいい』
『それじゃ駄目なんだ。
は誰かに守られるなんて、できない』
拒絶の言葉だった。
そしてそれは、彼女の精いっぱいの優しさでもあったのだと気付く。
『ごめんな。お前の望む答えはあげられない』
あの時の
の表情を、鮮明に覚えている。
とても綺麗で、儚くて、泣きそうな顔で笑っていた。
彼女の告げた言葉を真正面から受け取り、それが彼女の決めた彼女の意思ならば――と、消沈する心のまま潔く身を引くつもりでいた。
だけれど。
失念していた。
彼女は、天邪鬼で素直に本心を見せられないということを。
だから、本当は。
―――――!!!!!
突如けたたましい音が辺りに響く。
瞬間、カイは弾かれたように動いた。
ばさばさと資料を床に散らばすなど普段のカイならば絶対に許さないが、今は構っていられない。
メダルを取り出すと応答を確かめる前に短く叫ぶ。
「何事ですっ!?」
『救難信号と出動要請です!場所はリヨン南部の町です!』
「情報は?」
『海側よりギアの大群が襲来、確認されているのは大型ギア1体と中型ギアが3とのことです。
現在は町へ侵入し住民は避難を開始しているとのことです』
「分かりました。引き続き情報を集めてください。
――司令部、第一大隊から第三大隊までに招集を。私も出ます」
『『はっ!』』
言うなり、カイは走り出した。
通路を進めば、慌ただしく動く団員たちとすれ違う。
突然活動を再開した敵に対し、誰もがより一層の緊迫感を抱いているようだ。
こんな時こそ指揮は慎重に行わねば、とカイは自身も粟立ちかけていた精神を落ち着かせ、芯を取り戻す。
そして部下から封雷剣を受け取り司令部へ辿りつくと、先程遠くから見ていた彼女の姿があった。
「――町からの通信は途絶えた。初動から5分経っていない。報告よりもギアの数はきっと多い」
口早にそう告げ、
はカイに向き直った。
その瞳が持つ光に思わず息を飲んだが、すぐに表情を引き締めこくりと頷いた。
「ええ。大隊を三部隊連れて行きます。
飛空艇の準備は?」
「はっ!あと7分で飛べます!」
「急いでください。
部隊は搭乗開始。救助者の保護の用意と救命の準備も万端に」
「はっ!」
指示の声にその場にいた多くの団員たちが持ち場へと散っていく。
だけがその場に佇んだまま、目の前に広げられた地図を見つめていた。
「
さん、我々も――」
「……ギアはどこから来たんだ?」
「え?」
「5日は前だが
たちはこのリヨンの北部を通っている。その時だって広範囲の索敵はしていただろ?
だけれどその時は何も引っ掛からなかった。根城になるような場所があればわかったはずだ。
それに、こっちの、スペインには支部がある。反対側だって、国連と、こっちにはローマ支部がある。
そうだとすると……」
は険しい目つきで地図に触れる。
「海を渡ってきた……?」
それとも――
「――今は、とにかく急ぎましょう」
カイの澄んだ声が
の思考を止めた。
小さく頷き、きびすを返したカイの背を追うように彼女もまた歩き出す。
「まずは生存者の保護を第一目標にします。殲滅はその後です」
「うん。分かってる」
「……無理をする必要はありませんから」
「…………」
背後で頷きの気配を感じ、カイは小さく息を吐いた。
そして発着場に着くと丁度団員らが搭乗しているところだった。
「カイ様!間もなく出発できます!」
「では人員が揃い次第発ちます。
念の為、残る部隊には装備を整え待機するよう伝えてください」
「かしこまりました」
応える団員の声は硬く、カイの命令の意味を理解したようだった。
それを脇に見ながら、
も飛行挺に乗り込んでいく部隊に続こうと一歩を踏み出す。
「
さん」
短く名を呼ばれ振り向いた彼女へ向け、カイの真っ直ぐな視線が注がれた。
カイは表情を動かすことなく、無言で見つめ返すその少女へと近付き彼女にだけ聞こえるように小さく告げる。
「戻ってきたらお話ししたいことがあります」
静かな、だけれど無視を許さない確かな響きだった。
それに対し
もまた表情を変えず、呟くように「わかった」とだけ言葉にし、足早にステップを昇っていってしまった。
その反応にカイは小さく苦笑を浮かべる。
そしてゆっくりと瞬きした次の瞬間、その顔は団長としてのものに切り替わっていた。
しっかりと前を見据え、白いコートを風にはためかせ歩み出す。
「――聖騎士団、出動します!」
号令の直後、離陸のアナウンスが警報と共に辺りの空気を震わせた。