Fortune 46


 確かな形へと成長した、心。



 それはたった数秒の出来事。
 衝撃で硬直したのも僅かな時間のはずだが、の冷静さを失わせるには十分なものだった。
 ややあってカイの顔が上げられる。
 だがもちろん直視することなどできるわけもない。
 自分の内側から響くうるさい音に不快感を覚える余裕もなく、は反射的に自分の表情を隠すように俯いた。
 だから、カイがどんな顔で自分を見ているかなど分からなかった。
「……聡い貴女のことです、もう、気付いているでしょう?」
 常らしからぬ少し弱い声音に、否応無く体に緊張が走る。
 おそらく自分の指先は小刻みに震えているだろう。
 そしてそれはその手を取るカイにも伝わってしまっているはずだ。
 逃げ出したい。
 でも。
 今それはしてはならないと、何かが静止をかける――その何かが全く分からない為にまた困惑する。
 何だというのだ。
 は混乱が膨らむのを抑えられぬまま、表情を険しくしていく。
 カイの位置からは彼女のその顔は見えなかったが、雰囲気で何かを感じ取ったようだった。
 ひとつ、小さく息をつく。
「……少し席を外しましょう」
 そう言い、カイは近くの使用人に二、三言葉を伝えてからの手を引いて歩き出した。
 存外大人しくついてくる彼女にカイは心配げにそっと視線を向けるが、変わらず表情を伺うことはできない。
 カイの胸に小さく痛みが走る。
 触れている手は少し冷えている。
 彼女の目に映るものが何なのか、カイには分からない。
 ――それでもこの手を放す気はなかった。
 やがて人の輪を抜けるとバルコニーへ続く豪奢なガラス扉の前に出た。
 そのままそっと音を立てずに扉を開き、小さな隙間に先に彼女を誘導するように滑り込ませる。
 扉を後ろ手に閉めると、華やかなざわめきが途端に遠くのものになった。
 急に何もないところに出たせいか静けさが耳に響く。
 ガラス扉と厚地のカーテンにより内側の音も光もほとんどが遮られ、まるで別空間に来たような感覚だ。
 天の月明かりを頼りにの後ろ姿を見つめる。
 夜気の冷たい風が彼女の長い髪をさらさらと撫でる。
 それを見ていたらまた胸が苦しくなった。
 緊張している、とカイはいつもと変わらぬ表情の下で冷静に自分自身を分析した。
 先ほど言葉にした意味通り、はもう気付いているはずなのだ。
 自分が彼女に向ける感情の正体に。
 ――昨日のあの事件の日に。
 あの日、と連絡が取れなくなった後事態がすぐに把握できたのは幸いだったが、そこからの数時間、気が気ではなかった。
 警察機構の制止を無視して単身潜入し彼女の姿を見つけた瞬間、加減も忘れ彼女に覆いかぶさる男を吹き飛ばした。
 痛々しい外傷が残る彼女は、それでもすぐにいつも通り強がった。
 まるで大したことがないとでも言うように。
 それがとても腹立たしく思えて、戸惑うを責めて、理解されないもどかしさに突き動かされるように彼女を抱きしめた――そこではっきりと気付いてしまったのだろう。
 そして、彼女は知らないふりを演じることを選んだようだった。
「……なんで」
 目の前で背を向けるの口から絞り出された声はいつもよりも低い気がした。
 それを耳が捉え、こちらが問いたいと咄嗟に思ったが言葉にはしなかった。
 そして答えることもなく、無言の時が過ぎる。
 細い肩を見つめる。
 手は繋がったまま、少し引けば簡単に触れられる距離。
 だがそれを今はとても遠く感じていた。
 ふ、と、が小さくため息をついた気配がしてカイは顔を向けた。
「……は聖騎士団に入って、良かったと思ってる」
 ぽつり。
 独り言のように彼女はつぶやく。
 カイはただ続きを待った。
「大切な仲間がたくさんできたから。
 ……大事な友達ができたって嬉しく思って、団で働く人や街の人、知り合った人達を守りたい、って段々思い始めて……そんな時、を庇った仲間を失って、友達と喧嘩して、怒られて、気付かせてくれて……そんなみんなのことがもっと好きになった。
       ・・・・・・・・・・
 おかげでね、騎士として戦う中では、助けたり助けられたり、頼ったり頼られたり、そういうことをちゃんとしようって考え方が変わったんだ。
 ――でもね、」
 過ごしてきた日々を振り返るような科白が続き、そこでは言葉を切ってカイへ顔を向けた。
 月明かりの下薄く笑み、でも凛としたその彼女の顔をカイは場違いながらも綺麗だと感じた。
 そしてその強い眼差しのまま、は続ける。
 ・・・
「その先は、巻き込むわけにはいかないんだ」
 ざぁ……、と風が木の葉を揺らす音が幾重にも重なる。
 だが、はっきりとした音のそれは掻き消えることなくカイの耳へと届いた。
の目的は、自分の過去を知ることだ、って……話したよな。
 そう、聖騎士団に入る前は賞金稼ぎをしながら世界を回っていたんだ。
 アテなんてなかったけれど、見たり聞いたりすることで思い出すことが何かあるんじゃないか、ってね。
 ……とは言っても旅を始めたばかりの頃は正直言って期待なんてしていなかったから、本当は探すフリをして自分を諦めさせようとしていたんだよね。
 ――それが偶然、見つかっちゃったんだ。
 初めて手掛かりを掴んだんだと理解した途端、それまで感じたことのなかった……渇望、みたいなものが体中に拡がっていったんだ。
 そして、想像をして段々怖くなった。
 の知りたいことは、知るまでと、そして知ること自体が危険なんだ、って。
 ……そんなことに、誰かを付き合わせるわけにはいかないんだよ。
 それに、任務中にまたアレと対峙してしまったら……聖騎士団の使命より自分の望みを優先させてしまうかもしれない。
 ……うん、きっとそうしちゃう気がする。
 前についででいいなんて言ったけれど、ごめん、あれは嘘ってことになる。
 これが、まだカイに言っていなかったの本音。
 騎士を名乗る資格も、本当はないんだよ。
 カイの期待に応えられるような人間じゃ、ないんだ」
 つないだ手がどんどん冷えていくのをは感じていた。
 夜風で寒いせいだけじゃない。
 震えそうになる体を奮い立たせるように背筋を伸ばす。
 そして目の前の整った顔を真正面から見つめる。
 は表情を変えないカイに何を見たのか、小さく苦笑を漏らして視線を下げ、彼のその手を離そうとした。
 だが。
「よくもそんなに自分勝手なことを並べられますね」
 冷ややかな一閃に動きを止める。
 ……いや、離そうとした手に力が込められて動くことができないのだ。
 静かに怒りを露わにされ、は覚悟はしていたものの動揺を抑え込むことができない。
 それでもどうにか目を逸らさずに、見上げた。
 だがそこにいたのは、予想に反し儚く微笑むカイの姿だった。それが目に映った瞬間、の体は本当に動かなくなってしまった。
「貴女がどんな風に考え、何を諦めようとしているのか、ようやく解りました」
 言って、カイは握るの手を自身の額に押し当て瞳を閉じた。
 彼の熱に、心臓が跳ねる。
さんが何を求めているのかは以前聞かせてもらいましたし、知っているつもりでした。
 でも、何故他人に頼ろうとしないのか、そこがずっと疑問でした。
 ……貴女は、――優しすぎます」
 言葉が、近く、耳元に降ってくる。
 その感覚は正解だった。
 カイの口元は顔のすぐ脇にあり、体は彼の腕に包まれていたから。
「言ったでしょう、力になると」
 ゆっくりと投げ掛けられた言葉。
 それの意味を遅れて理解し、は顔を歪めた。
「……それは駄目だ。カイには関係ないことだ」
 は低い声ではっきりとそう言い放ち、掴まれたままだった片手を振り払う。
 それにカイは隠しもせずに眉根を寄せ――
「――確かに今までなら、私が口を出していいことではありませんでしたが」
 ぐ、との背に回した腕に力を込めた。
 それには顔色を変える。
「っ!?放せ!」
「なら力尽くでどうぞ」
 はあっ!?とまともに青筋が立つ。
 だがカイは素知らぬ風に続ける。
「貴女なら、嫌なものに対してはそういう行動に出るでしょう?」
 事実、カイは過去にそういう目にあったことが(不可抗力だが)ある。
 一方は、彼の余裕を含ませた言い方に体の中で何かががぐつぐつぐるぐると気持ち悪く粟立つのを感じていた。
 どうしてそんな言い方をする。言われなくちゃいけない。
 かっと怒りに似た衝動が体を駆け、自由になっていた腕を振り上げる。
 ――しかし、それだけだった。
「……なんで……」
 の口から先程と同じ台詞が掠れた声で絞り出された。
「どうしてなんだよ……」
 ぽとり、腕が力なく落ちる。
 顔全体が痺れるように強張る。
はお前を傷つけてばっかりなのに……」
 わなわなと唇が震えているのが自身にも分かっていた。
 湧き上がった感情はすでに掻き消え、代わりに無性に泣きたいような感覚が胸を突き上げていた。
 苦しい。
 辛い。
 怖い。
 こんなにも――
「貴女から与えられる痛みならいくらでも受け止めますよ」
 ――大きな想いを向けられることが。
「だから、私を傷付けることを怖がらなくていいんです」
 よしよしと幼子のように頭を撫でられる。
 それは落ち着かせるための、あやすような行動そのもので。
 どうして年下からこんな扱いを受けなければならないのだと眉を顰めかけたが、実際強張りが溶けてしまっているのだから、奥歯を噛み締めるしかない。
 は、ひとりで生きていけると思っていた。
 それが強さで、自分はそれを持っていると信じていた。
 友達はもちろん大切だから、の個人的な理由で迷惑をかけることなどしたくないと決めていて。
 その友達が困っていたら助けたいと思うけれど、その逆は、には必要ないという自信を持っていた。
 は守られなくても大丈夫。
 そうやってこれから先もやっていける、と――そういう自分を作り上げてきた。
 それなのに。
 彼が言ったように自分勝手でしかないに、どうして関わろうとするのか。
 あまつさえ、の言い分もまるで知らないふりして、傷つけることを怖がるなとまで言う。
 どうして。
 は、……そんな風には思えない。
 大切な人を自分勝手な望みに付き合わせることこそ、本当の身勝手ではないか?
 受け止める、なんて……もしも、のせいで彼に取り返しのつかないことが起こってしまったら――
 ――瞬間、脳裏によみがえる、を庇うように命を落とした騎士の青年の姿。
「っ、駄目だ、そんなの……」
 カイがそうなってしまったら、はもう立ち上がることができなくなってしまう。
は、ひとりでいい」
「……まだそんなことを言いますか」
「いいんだ。これが一番いい」
、いい加減に……」
「例えば危険が迫ったとき、カイはきっとを守ろうとするだろう?」
 カイの言おうとする言葉を遮り、問う。
 それに彼は逡巡する間もなく「当たり前です」と返す。
 は眩しげに目を細める。
「それじゃ駄目なんだ。
 は誰かに守られるなんて、できない」
 ぴしゃり、と音が立つような声をは放つ。
 それにもカイは臆すことなく言葉を返す。
「駄目の一点張りで納得できると思いますか?」
「……ああ、してもらわなくちゃならない。
 カイはこれから先もきっと世界の重要な位置で生きていく人だか「――貴女にまで、」
 ぐ、と額を合わせるようにカイがの目を覗き込んでくる。
 睨みつける、の方が正しいくらいの視線で。
「貴女にだけは、そういうことを言って欲しくなかった。
 立場など、周りから与えられるだけのものであって私自身とは関係ない」
「それでも、事実、必要とされてるんだ。嫌でも自覚しなくちゃいけない」
「そんなこと、今は関係ないはずです」
「……確かに、とは言えない。に関わると、そういう部分にもリスクが生まれていくんだ」
「そんなこと理由にはなりません」
「普通なら、ね。……も、カイも、……違うんだよ」
 ぎり、と歯噛みする音が聞こえた。
 どちらのものかは分からなかった。
「それでも私は、」
「カイ」
 絞り出された声に、場違いなほどやさしい響きが返される。
 カイははっと目を見開く。
「ごめんな。お前の望む答えはあげられない」
 再び、冷たい風が二人の間を吹き抜けた。