近付く距離と、――
豪華なシャンデリアが照らすキラキラとした空間。
生のオーケストラが奏でる重厚な音楽が包む柔らかくも凛とした雰囲気。
くるくると流麗な動作で踊る盛装した人々。
その脇では手の混んだオードブルが並び、少し奥では焼きたてのローストビーフがシェフによって切り分けられる。
ウェイターが運ぶのは琥珀色のスパークリングワインに深い色の赤ワイン。
舞踏会――そんな幻想的で浮世離れしたような空間が今、現実として目の前に広がっていた。
――数時間前。
「嫌だ。無理。意味がわからない」
「観念して下さい」
「お前が恥かくぞ。いいか、やめておけ」
「――先日のあの様子からして、教えられたのはテーブルマナーだけではないですよね?」
「……ちっ」
「何度も言いますが聞こえるように舌打ちをしないように。
さて、時間も迫っていますし行きますよ」
「行か……どこへ、デスカ?」
しばらく頑固な態度を崩さない
だったが、先を歩くカイから向けられた無言の笑顔に背筋を震わせ、ついに渋々折れる。
カイはその笑顔のまま攻勢の手を緩めることなく畳み掛ける。
「言ったでしょう、準備と」
ひ、と体を引いた瞬間に手首を掴まれる。
「本当はこういうものはオートクチュールで用意して差し上げたかったのですが、場合が場合なので仕方ありません。
ちなみに、気を利かせた職員が貴女の制服の採寸データを既に聖騎士団本部から取り寄せ街のドレス店へ連絡し在庫を集めてくれているそうですので、そこから見立てることになりそうですね」
「そんなしょうもないことに職員使うな!しかも無駄に手際いいし!
つか、個人情報保護とか云々はどうなった!?」
苦し紛れに腕をぶんぶん上下に振るが、やっぱり彼は放してはくれない。
どうしよう、本当に涙が出そうだ。
頑なに拒否の姿勢を貫いていた
だったが、ついに希望が見えなくなってきたのかがっくりとうな垂れる。
そのまま大きく深い溜め息を吐き出すと手首にかかる圧力が少し緩み、少しだけほっとした。
だがその安堵も一瞬、やんわりと指を包むように手をとられる。
それに眉を顰めそうになったが、踏みとどまる。
「……舞踏会は、エスコート必須です。
今晩だけですから、我慢して手を引かれて下さい」
言葉に僅かに含まれた自嘲の響き。
それを
は感じ取っていた。
だから俯いたまま小さく「分かってる」とだけ答えた。
――現時刻、舞踏会場。
続々と賓客が集い出す。
絢爛に着飾った女性達がそれぞれテールコートに身を包んだ男性に手を引かれ、誇らしげにドレスの裾を揺らしている。
窓の外は夕焼けの色も落ち着き夜の帳が落ち始め、屋外から見ればこの舞踏会の空間だけが明るく浮き上がっているように感じられるだろう。
会場の人々が増えだし、そろそろダンスミュージックが流れ出す、という頃。
こつり、という小さなヒール音のした方向へ何の気なしに視線を向けた男性が、ぴたりとグラスを口に運ぼうとしていた動きを止めた。
出席者の中でも特に若いであろう幼さの残る顔立ちの少女と、同じく青年というにはいささか早いくらいの少年が堂々とした足取りで入場してきたのだ。
男性ははじめその異質さに驚いた様子だったが、次の瞬間には別の意味合いをもって彼らを見つめていた。
視線を向けられた少女は、周囲の淑女らと同じくイブニングドレスに身を包み髪を結い上げた夜会のスタイルではあるが、シンプルなシルエットに控えめにあしらわれた花飾りやレース使いのドレスにより年相応の可憐さが感じられた。
また、長いミルクティー色の髪はハーフアップの状態で垂らされた後ろ髪の毛先が巻かれており、より華やかさを演出している。
そしてそのパートナーの細い手を引く少年に向けては、会場の女性達の多くがほう、と熱の籠ったため息を漏らしていた。
彫刻のように美しい顔立ちに金糸のような髪が揺れる様は、服装と雰囲気もあいまってか陳腐な表現ではあるがお伽話の王子様というタイトルがしっくりときてしまうような出で立ちで。
彼の装いが周囲のホワイトタイとは異なり、シルバーグレーを基調とし銀糸の刺繍飾りで縁取られた独特なフロックコート風の衣装であることも目を引く一つの要因ではあるだろう。
だがこれはわざわざ奇を衒(てら)ったというわけでもなく、単にその衣装が聖騎士団の団長としての正礼装であるというだけの理由であった。
その為、帯剣はしていないものの騎士としての風格をその姿だけで十分に漂わせ、より一層視線を集める結果となった。
更に彼の所作はどれも洗練され、堂々と危な気無くパートナーをエスコートする様子は成年男性顔負けのものであり、会場中の視線を集めるには十分すぎる条件が揃っていた。
そんな風に周囲の目には一見優雅で微笑ましく映る彼らであった、――が。
「――何でお前だけいつもと似たような格好でいるんだよ(怒)」
「仕方ありません。これが立場上の正礼装なので」
「何だよじゃあ
もそいうのでいいじゃん」
「女性用はありません。女性の正装は大前提としてドレスなのですから」
「……時代遅れの男女差別だ」
――小声で交わされる内容はまったく穏やかではなかった。
傍目では微笑み合うペアのようだが、その実は水面下で未だに
の爆発寸前の不平不満がくすぶっているという不穏な状態であった。
苛立ち紛れに握る手に必要以上に力を込めるがカイは無反応。
しかも分かっていてわざと「足元に気をつけてくださいね」などと白々しく気遣う素振りを見せてくるものだから、彼女は更に機嫌を悪くしていく。
そう、
の手がカイの腕へ添えられているのには形式上のエスコート以外の理由が存在した。
情けないことだが、履き慣れないハイヒールを履いている為歩く時にバランスを崩すこともある。
それを時々ばれないようにカイに支えてもらっているのだ。
本当に全くもって情けない理由であり、そのおんぶに抱っこのような状況もあいまって、
のストレスは溜まっていく一方なのである。
まだ始まったばかりだというのに既に胃にキリキリとした痛みを覚えつついると、ふと近付いてきた気配が傍で立ち止まったのを感じ、振り返った。
「キスク団長、ようこそお越し下さいました。
それに……これはこれは、まさに女神の名にふさわしい美しさですな。
補佐官も、どうぞ最後の夜をお楽しみください」
そう言って国連のどの組織だったか、この数日で見覚えができた顔の男性が声をかけてきた。
カイはその人物の名を呼び、すらすらと淀みの無い対応をとりはじめる。
毎度思うことだが、こいつのこういうスキルはどこでいつ学んでいたのだろうか。
戦禍で両親と家を無くした5年の後、聖騎士団へ入ったことは以前聞いた。
だが、その前にどんな暮らしをしていたのか、どんな家族だったのか、憚られる思いがしてこちらから聞くことはなかったから、それ以上のことは知らないのだ。
そうだ、と改めて思う。
はカイのことをよく知っているつもりだったが、知らない部分の方が多いのだと。
人々の話し声やオーケストラの奏でる演奏が交錯する中、
は隣にいるはずのカイを少し遠くに感じていた。
「――紳士淑女の皆さん、本日はお集まり頂きありがとうございます」
法力補助の拡声器を通したテノールが会場に響いた。
年の頃は50台半ばくらいか、年齢の割に若々しい声だった。
「今宵の催しは格式張ったものではございません。
皆様方への常日頃の労いと交流を目的としておりますので、どうぞざっくばらんに語り合い、踊りを楽しみ、美味しい料理をお召し上がり下さい――ああ、一応ご注意いたしますが、ボタンが弾け飛ばないよう量はほどほどに」
どっと笑いが起きる。
皆付き合いがいいのか、それとも既にお酒でも入っているのか、と、
はついていけない気持ちで聞き流す。
「それでは皆様方、どうぞ楽しい時をお過ごし下さい――」
瞬間、パッとシャンデリアの光が強くなり、反対に壁際の照明が隣人の表情がギリギリわかる程度に落とされる。
そして、ワルツの演奏が始まった。
「……そんな顔で見るな。覚悟はできてるよ」
演目はシュトラウス二世の美しき青きドナウ。
一組、また一組と、男女が手を取り合い曲に合わせたステップを踏み始める。
とカイが立っている付近も、その輪に飲まれつつあった。
溜め息混じりに発せられた言葉にカイは小さく笑みを作り頷いた。
そして、自分の腕に添えられていた彼女の手を取りながら一歩下がるようにして彼女と向き合った。
お互いに軽くお辞儀をし、見ている者にも違和感無く自然な動きでポジションを形作る。
カイの右半身に
も向かい合った半身を重ね、呼吸を合わせるように一歩目を踏み出す。
その後も、カイの動きに合わせタイミング良く足運びを続けていった。
「……お見事です」
「お前なぁ……いきなり試すようにステップ難しくするのはやめてくれ。習ったのももう随分昔なんだからさ……」
体が密着している為、ヒソヒソと話すことも不自然にはならない。
そんな風に辟易とした口調の
だったが、依然として足がもつれる様子も見られず、安定した動きを見せていた。
ここに来て二つ目の良い意味での誤算だ、とカイは安堵する。
だが、それと同時に何か落ち着かない気持ちを感じ始めていた。
今この至近距離にいるのは確かに
だ。
着飾っている今も、会話の中で垣間見せる表情や少々の口の悪さは彼女そのもの。
だというのに、まるで別人のように映るのは何故か。
普段の彼女とあまりにも違う雰囲気だからだろうか。
――いや、そうじゃない。
見え方がそれまでと変わった感覚……のような。上手く言葉では表現できないが。
また明日から彼女が少年然とした立ち居振る舞いに戻り周囲がその通りだと誤解する中でも、これからはきっと自分はそう感じることができなくなるだろうと思う。
は当たり前に女性なのだ――と今更ながら気付いたのかもしれない。
動く度に揺れる髪が触れれば柔らかいことを知っている。
こうしてダンスの中で支える体が華奢な見た目通り軽いことも。
――こんな状況で意識してどうする、と頭の中で自身に冷静に言い聞かせるが一度考えてしまうと中々抜け出せない。
少し前までは自身をコントロールすることに何の苦も無かったというのに。
眩暈に近い感覚を必死に振り払う。
だがそれでもなお、自分の中でその存在感は増すばかりで。
この窮屈な苦しさを、今は耐えることしかできない。
一瞬、背中に回された腕に力が入ったことを感じ取った
が怪訝そうにカイを見やったが、ふわりと微笑を返されたので気のせいだったかと目を逸らした。
そして心の中で嘆息する。
カイに対してではない。
先程から感じ続けている居心地の悪さにだ。
その原因は……皆まで言いたくないが、周りからの視線だった。
盛大に吐き出したい溜め息と悪態をギリギリのラインで押し留めながら、
はひたすら踊りに集中することでそれらから目を逸らし続けていた。
ダンスのステップは武道の足運びに通ずるものがあるという理由でこんなものを仕込んでくれた人物には感謝すべきなのか。
一生敵わない気がするその人にはかれこれ3年は会っていない。
殺しても死ななそうという表現がぴったりなあの人は想像通り元気に生きているだろうから、今度里帰りでもしようか。
現実逃避気味にそう懐かしんでみるが、気を紛らわせることはできなかった。
見られている――とはいっても、それらの視線の対象は
ではなく向かい合わせにいるカイの方だ。
元から無闇矢鱈と目を引く容姿をしている上に今はそれを更に整えているものだから、視線の量が普段の比ではない。
確かに、カイは綺麗な顔立ちをしていると思う。
以前、髪を伸ばしたら美人になるよ、と言って不機嫌にさせたことがあったが、そう思うのも無理はないだろうと大半の人が同意してくれるはずだ。
今だって、その中性的で少年らしさの残る造形美が周りのマダム達の心を掴んでいるのだろう。
そのお陰でおまけでくっついている状態の
に向けられる視線が痛い。そうだ、これは絶対に気のせいじゃない。
とばっちりで散々だと心中で悪態をつきつつ、仕事は仕事なのだからきっちりこなさねばと自分を励ます。
がその理不尽な不快感に対するイライラをどこにも発散できずついカイを半眼で見上げたところ。
「何を怖い顔をしているのですか?」
「……無駄にキラキラしすぎだコノヤロー」
じと、という効果音が似合うような目を向けられカイは苦笑いだ。
自覚はあるようだな。当たり前か。
だからといって彼が悪いわけではない。
ではないのだが……どこか納得がいかない。
「これが貴女にとってのデビュタントみたいなものなんですから。
笑ってください」
「貴族に生まれた覚えはねーよ」
「……いつも以上に口調が乱暴ですよ」
「これが今の
の率直な心情だと思って諦めてくれ」
そう吐き捨て、
はカイの肩に隠れて嘆息した。
行儀が悪くも器用なその様子に呆れつつ、本当にマナー関係は危なげがないな、とカイは些かずれた思考で再び感心していた。(
のおかげで図太くなったに違いない)
性格の粗雑さは元々のものとして片眼を瞑れば許せる範疇であるし、こうして合間に余裕を見せられるくらいなのだから相当しっかり教えられたのだろうと伺えた。……何故か彼女自身は多くを語りたがらないが。
しかし一方、
はどこまでいっても彼女らしいとも思う。
悪態をつきつつも投げ出さずに役割を果たそうとする姿勢は、律儀、というよりも性根が真面目故のことなのだろう。
それでいて束縛を嫌う自由さも併せ持っている彼女のそのバランス感覚が、おそらく周囲に人を集めるひとつの要因になっている。
それは規律を重んじる人種、自由を好む人種の両方が彼女のその性質について憧憬に似た念を無意識に抱くからだろう、と容易に推察できる。
何故なら、きっと自分も、その中の一人だからだ。
「……ったく。
でもまあ、この曲を踊りきれば騎士団としての面目も立つだろう?」
「ええ。十分過ぎてお釣りが出ますよ」
「だろ?なら、帰ったあとボーナスでも期待しておくよ」
「それは、城下町のスイーツでも?」
「もちろんウェルカムさ」
言って、悪戯をするときのような無邪気な笑みを見せる。
それにつられて自分も口元を緩める。
こんな状況だというのに、彼女にかかれば気負いもなくなってしまう。
自然体の彼女に自分も次第に惹き寄せられ、自分自身も知らなかったような自分が顔を覗かせさえする。
もう何度目になるか、改めて思う。
が好きだと。
やがて1曲目が終幕を迎える。
続いて次の曲目が始まるタイミングで二人は示し合わせてそっと輪から外れた。
がホッと一息をつきながら休憩する為に壁際まで下がろうと足を踏み出すと、重ねたままの手を引くようにカイが立ち止まる。
それに彼女は首を傾げながら体ごと向き直った。
再び向かい合う立ち位置になり、
は正面からカイを見る。
そして、――息を飲んだ。
の手を取り、指の背に静かに口付けた彼のその行動に。