昨日のことが、現実味を帯びてくる。
目が覚めてからも、羽がたっぷりと詰まった枕に頭を半分程沈み込ませ、手脚を無造作に放り投げた格好でしばらく横になっていた。
一言でいえば、気怠い。
目は開かれてはいるが、視線の先はぼんやりとしていて何を見ているのか自分でも分からなかった。
片手をゆっくりと握る。
少し、汗ばんでいた。
それを感じると、腕や、背中や、身体中がじっとりとしているような気がしてくる。
徐々に気持ち悪さを覚えてきて、ようやく上体をベッドから起こした。
熱めのシャワーでも浴びよう。
そう思い立ち、バスルームへ向かうときれいに畳まれているバスタオルを手に取る。
視界に入った自分の手首に目線を落とし、次いで洗面台に備え付けられている若干豪奢過ぎる鏡へ向き直った。
首の跡は、短時間でついたものだったからかもうほとんど目立たない。
それに対し、手首にはくっきりとうっ血による痣と擦り傷が残っていた。
元々傷の治りは早い方だが、流石に一晩では消えなかったらしい。
は乱雑に髪をかき上げ、その手を頭に押し付けるようにして指を握り込んだ。
閉じられたまぶたの上では眉が険しい表情をしていた。
数秒そのまま固まったように微動だにせず、その後ふっと肩から力が抜けたかと思うと、腕を下ろし大きく深呼吸した。
気怠いまま、浴室の扉を開ける。
きゅっと勢いよく蛇口を捻れば数秒で冷水からお湯の温度に変化した。
簡単に汗を流すと、パイルがふんわりとした上質のタオルで体を拭き髪を乾かす。
いつもと変わらない、朝の行動。
服装を整え、長い髪を結い上げる。
ピアスがきちんと嵌っていることを確認し、正装用の真新しさの残る制服に袖を通す。
今日の予定は昨日の件で少し変更があるだろう。
晩の遅い時刻だったこともあってか、
への事情聴取も状況確認程度の簡単なものにとどめられた様子であったし、あの規模での犯罪だ、それなりの組織が関与しているのは想像に容易い――と考えれば、捜査協力をせざるを得ないだろう。
……願わくば、
の賞金稼ぎ時代を知る人間がいないように。
今の立場とは関係ないことだし、これ以上邪推されるのも面倒だ。色々な意味で。
――コン
ぴくり、と肩が反応する。
小さめのノックの音に座っていたソファから腰を上げ、扉へ向かう。
「はい」
「おはようございます
補佐官。
早い時間に申し訳ございません」
聞き慣れない声だが、覚えはある。
この建物を訪れた初日、応接間から広間まで案内役をしていた執事だ。
そう、昨晩はあんなこともあったせいで身柄保護という名目で国連本部の敷地内にある賓客用の客間を使わされていたのだ。
「いえ、もう起きておりましたので」
「左様でしたか。
実は警察機構より連絡がございまして、すぐにでもお話を伺いたいと言っております」
「すぐ、ですか?」
「はい。
このご依頼については既にキスク団長へ連絡がいっておりますのでご心配はいりません」
カイの名を聞いて息が一瞬止まったが、気のせいと決め付けた。
「――ならば、問題ありません。
身支度に少々時間を頂戴しますが、どちらに伺えばよろしいでしょうか?」
執事から向かう場所と道順を聞き、彼が立ち去るのを確認しながらもう一度ソファに座り直した。
準備は終わっていたが、はいじゃあすぐに行きます、という姿勢を見せると必要以上の協力を請われそうな予感がしたのでやんわりと牽制したのだ。
ここに来てからそんな探り合いばかりで気疲れしてくる。
それにしても、朝食もまだという時間なのによく仕事をする気になるなぁ、とゴブレットに注いだ水をこくりと喉に流し込みながら思う。
国際警察機構、という組織は以前の仕事柄よくお付き合いをしていたからその真面目な職業特性みたいなものは感じていたが、今回はそれだけではなさそうだ。
面倒事にまんまと巻き込まれていく自分の未来を感じ、ぞっとしながらため息をついた。
聞かれた事柄は、事件にあった場所と時刻、どういった誘導をされたか、その場にいた人数はどれくらいで人種はどのようだったか、他にも言葉の訛りや会話の中で独特の単語が出なかったか、等、事細かに時系列を追いながら情報の整理がされた。
特に、捕まった際に盛られたであろう薬による効果と、監禁されていた部屋の周囲に張られていた法力の発動を妨害する結界については、法力学の専門家が同席の上、性質と属性の特定が長時間に渡って論議された。
その中心に
がいる。
そう、警察機構にとって幸運だったのは、未遂で救出される形になった彼女自身が、法力の、中でも気という特殊な属性を操れる人物であったことだった。
今回お縄になった犯人達が主に狙うのは、過去に壊滅したとされる島国の血を引く人間。彼らにはこの力が宿ることが多いとされている。
そして、それへの対策をほぼ万全にしていたという事実。
それこそが、奴らが知識者と技術者を擁し、また人間の身柄を影で取引できるほどのコネクションと財力を持つ大きな組織であることを物語っていた。
ここ数年、流民や旅人の行方不明が数件起こっていたのもまた事実であり、子供から大人まで幅広い年代の女性が事件に巻き込まれていたとされる。
法と秩序をもって住民を守ることが職務の警察機構も長年に渡って捜査をしていたが、尻尾は掴めず歯がゆい思いでいたらしい。
そこにきて発覚したこの事件。
ついに組織に近付けると意気込んでいる捜査官たちの熱意は
へと向けられることになった。
「――では貴女は法力で風を起こそうとして力が狂ったと?」
「正確には力が狂いそうになったからキャンセルしたんだよ。
風を起こそうと気の力を使ったら、変換して接続する瞬間に突然波動の振幅が変化して……消えかけたところに外部から違う力が作用して膨張させられた感じだった。
あと、光を作った時はフィルタをかけられたみたいに道が細くなった感覚だったかな」
「ふむ……その表現は的確かもしれませんね。
法力の性質を変化させる類のものか、はたまた弱体化させるものか………妨害という言葉で一括りにもできますが、事象自体は多岐にも渡る……予想以上に高度な術式が使われているようで解明には苦労しそうですね」
の向かいに座る専門家は頭を抱えながら溜め息をつくも、少しだけ、難問への知的好奇心のようなものを垣間見せていた。
「――先生、目的は分かっていますよね?」
「もちろんです。
彼女のおかげで今までの事件で不確かだった部分がいくつもクリアになりましたよ。詳細は長くなるのであとで警部にお話しするとしましょう」
「そういうところは流石というか。
では
補佐官、本日はここまでです。長時間に渡るご協力感謝致します」
そう言って警部と先生と呼ばれた男は立ち上がった。
もそれに倣うと、その男性の異常な背の高さに驚きしげしげと見上げてしまった。
(座って対面している時から気付いてはいたが予想以上だった)
すると自然とその先生と目が合い、ふっと笑みを向けられる。
学者にしては人見知りをしない温厚な人だなと偏った感想が生まれた、その時。
「ところで
補佐官。
不躾ですが、貴女はジャパニーズですか?」
それには先に歩き出そうとしていた警部もギョッとしていた。
問われた
自身もあまりにストレートな言葉に口を半開きにして固まってしまう。
だが、悪意や探るような嫌な感じはなく純粋に気になったから聞いたという様子だったせいか、数秒後、可笑しくなって吹き出してしまった。
「あはははは!
まさか、純粋なジャパニーズがこんなに堂々と闊歩しているはずないじゃないですか」
「ふむ……確かに。ま、ただ何となく思っただけですから。忘れてください」
そして笑い続けていた
に彼も笑顔を向けた。
数秒後、ひとしきり笑い終えた彼女へ彼は握手を求めてきた。
「申し遅れましたが、私はボルドヘッドというものです。
近くで医者をしておりますので困ったことがあったらぜひ相談してください」
意外な自己紹介に、
は驚きへと表情を変えた。
「お医者さま……でしたか。
てっきりこういう捜査には大学教授や専門の知識者が借り出されるものかと思っていましたが」
「先生は医学だけでなく法力の理論体系についても精通されているんですよ。
まさに世界最高レベルの頭脳の持ち主と言えますな」
「警部、それは褒めすぎていて逆に気持ち悪いですよ」
「そうですかな?はっはっは!」
その会話に
は目をパチクリさせたが、彼の人当たりの良さについては納得できたようだ。
「それでは我々は引き続き捜査を行います。
またご協力をお願いするかもしれませんが、その際は宜しくお願い致します」
今度こそ本当に部屋を出ていく彼らを見送り終えると、
は長い溜め息を吐きながらソファに沈み込んだ。
ゆっくりと瞬きをする。
「お腹……空いたなぁ………」
もうすぐ頂点で重なり合いそうな時計の針を眺め、そう独りごちた。