Fortune 42


 そんなのは知らない。知らなかった。



 白い空間に規則正しい正方形のマスが浮かんでいて。
 はそれをぼーっと見ていた。
 右手をそろりと目の前に持ってくる。
 見えたものに対して無意識に伸ばしただけだが、触れることはなかった。
 やけに動かし辛く感じる腕から力が抜け、体の脇に落ちる。
 その感覚で今の体勢が仰向けであることに気が付いた。
 手の届かない、少し離れた距離にあるマスはどうやら天井だったらしい。
 そして、今度は左腕を動かそうとしたが、何故か駄目だった。
 おかしいなと思い顔を顰めながらもう一度。
 瞬間、激痛と共に自分の体の中から何かが砕けるような高い音が響いた。
 あまりに唐突で鋭利な衝撃に息が止まり叫ぶこともできず、体中のあらゆる神経が瞬間的に暴れ出しそうになる。
 それを体の中から追い出そうと、声も出ないのに顎が外れそうなほど口中を剥き出しにし喉を曝け出す。
 それでも耐え切れずに今度は歯を噛み締め、左腕を抱き込むように身を丸める。
 がたがた震えながらシーツに顔を押し当てる。
 目を固く閉じ、苦痛を抑え込むように右手を肌に食い込ませる。


 次に恐々と目を開けた時、傷みは嘘のように消えていた。
 どこにも問題はない。左腕だって普通に肩から伸び、意志に応えて指先まできちんと動かせる。
 腕から体幹部、脚へと視線を下げていく。
 今は、自分の足で立っていた。
 はそのまま歩き出し、小走りになって、……どこかへ向かっているようだ。
「――!」
 何かを呼んだ。
 廊下のような場所で自分の声が高く反響したようにも感じるが、何と言ったのかは聞こえない。
 辺りを見渡して、ひとつのドアを開ける。
 暗い室内に誰かがいる。
 その人は窓の傍に立っているようで、逆光で顔は見えない。
 傍に走り寄る。
 随分背が高いと近付きながら感じたが、脇にある椅子や机の高さから見るに、が低いだけらしい。
 服の裾を掴み、もう一度名を呼ぶ。
 だがそれも自分の耳には聞こえなかった。
 その誰かは、しつこいの頭に手を置いた。
 大きい手だ。温かい。
 このは、どうやら笑っているらしかった。
 撫でるというより揺らすという表現が正しいような無骨な仕草だが、満足らしい。
 それにしても、これは誰だろう。
 小さながその人を見上げた瞬間、映像は途絶えた。


「……割と良い待遇じゃないのさ」
 は痛む頭を押さえようとして自身の手が後ろ手に縛られていることに気が付いた。
 目が覚めた今は、おそらく日付が変わった頃。腹具合から見てそう外れてはいないはずだ。
 良い待遇と零した理由は、監禁されている場所が普通の個室だったからだ。
 起きたら冷たい床の上、というのを覚悟していただけにベッドでの目覚めだったことが幸いに思えた。
 マットの硬さが好みでないのは置いておくとして、さて、どう脱出するか。
 未だ夢見心地の脳みそを揺さ振り意識をはっきりさせようとする。
 眠らされている間夢で何かを見ていた気はするのだが、その内容は記憶には残っていなかった。
 物音を立てないよう腹筋を使って上体だけを起こし、少しだけ集中して法力を使った光を眼前に浮かべる。
 こういった一般的な魔法技術は自身の持つ気の恩恵とはまた違うものである為、それほど複雑ではないにしろ計算が必要だった。
 その類はあまり得意でない彼女だったが、ふと、生み出した光源の予想外の小ささに眉を寄せる。
 確かに専門外の発動経路であったし、外に漏れるのは困る為慎重に制御を掛けたつもりだったが……
 少し厄介なものを感じながらも、ひとまず今置かれている状況を把握することにした。
 怪我はなし、薬の効き目も切れたようだ。
 縛られているのは手首のみ。だがこれも――切ってしまえば問題なし。
 思うが早く、は風の力で粗撚りの縄を切断しようと試みる。
 だが。
 気の力が具現化する直前、ふっと力が四散した。
 いや、今のはそうコントロールした。
 そうしなければ――勢い余って自身の手首に浅くない傷を付けるところだったからだ。
 呼吸を静め、感覚を360度に広げる。
 感じ取ったのは微弱な法力の波線。
 この波形は日常生活には縁のない類のものだ。
 どうやらこの部屋にはご丁寧に法力の発動を封じる結界が敷かれているらしい。
 光の微調整が狂ったのも、手を切り落としそうになったのも、それのお陰ということか。
 壁の向こう側と床下、それと天井にもか、――まさに四面楚歌状態だな、この結界は。設計者は極度の神経質に違いない。
 は長い溜め息を吐き出してから、後ろ手に縛られたままの状態でこきこきと首と肩を鳴らす。
 こんな事態になるなら縄抜けの術でも習得しておくべきだったかと冗談交じりに考えるが、正直縄はこのままにするしかないようだ。
 これらの用意の良さから、この集団が計画性をもった人身売買の常習犯であることが推測できた。
 それも大分手慣れていた様子から見て、それなりに組織立っている可能性が高い。
 もしかしたらギルドで賞金が掛けられているかもしれないな、と逡巡する。
 数秒考えを巡らせた後、ベッドから足を下ろした。
 忘れかけていたが今は冬。
 身なりはそのままで放り込まれたようで、コートも靴も捕まる前のままだ。
 意識が戻った瞬間にあっちのことも心配したが、奴らにとっての商品にわざわざ手を出すとも思えなかったのと実際違和感がなかったことですぐに頭から消した。
 微弱な暖房もないこの空間でコートなし、という事態にならなかったのは不幸中の幸いだ、と肩を落とす。
 大体、普段これだけの寒さならば自分で空調するというのに……よくも法力を使えなくしてくれたな。
 そんなズレた憤りを感じつつ、は扉の前まで足音を一切立てずに近付いていた。
 ぴたり、と木製の扉に肩を寄せ耳を近付ける。
 の気の力は大気に干渉するものなので、音――空気の振動というものに対して高い感知能力がある。
 普段は常人とそう変わらずとも、気の力を媒介とすることで自身の聴覚を数十倍に出来る、という隠し芸を彼女は持っていた。
 ただそれも脳みそにとっては情報量過多であるようで、数分も経たずに頭痛が起こる為普段は使わない。
 とは言っても賞金稼ぎの仕事をしていた頃はこの特技に多々助けられたな、と思い返す。
 聖騎士団に入ってからはこれが役立つような隠密・潜入といった人間同士の駆け引きのような遣り取りがなかった為に、持っている自分ですら忘れかけていたというのは愛嬌だ。
 これは術ではなくごくシンプルなブーストだから影響はほぼないはず……と、意識を扉の向こうへと研ぎ澄ませる。
 外にある気配は一人、二人……だけか。

 だが、二人同時に物音を立てずに倒すというのも難しい。
 二人が近くにいれば可能かもしれないが、感覚で察するに十数歩分の距離がある。一瞬で近付くにはいささか遠い間合いだ。
 増援でも呼ばれては更に厄介だしなぁ、と扉から離れ部屋を見渡す。
 人が生活するには手狭なここは、元々監禁を目的として拵えられたのだろう。
 窓がないから現在位置を確認できないし、時間も分からない。(彼女は腹具合で時刻を割り出したようだが)
 更には結界があるせいで、例えば扉をぶち破ろうにも暴発のリスクが高い。
 この結界の構成から見て、法力そのものを無力化するのではなく、法錬成に反応して構築を改変させる――いわば演算途中で式の一部分をすり替えるような――そんな代物なのだろう。
 これでは正常に技を発動させることは至難と言える。
 ただそれもパターンの癖さえ捉えればどうにかならなくもないのだろうが、そんな余裕はない。
 この状況下での強行突破は頭がいいとは言えず、だが待っていたからといって好機が巡ってくる可能性も低い。
 困ったもんだ、とベッドに腰掛け天井を仰ぐ。
 ――すると、10秒も経たぬ内に扉の外が騒がしくなった。
 ばたばたと、駆け足が扉の外をいくつも通り過ぎていく。
 おいおい、はまだ何もしてないぞ、と内心ヒヤッとする。
 目覚めたことがもうバレたのかと思ったが、ついに爆発音が聞こえて本当に自分のせいではないことが明らかになった。
「何だ?」
 ぽつり、と零すのとドアの鍵が開けられたのは同時だった。
「仕方がない、ここは捨て娘だけでも――」
「「あ」」
 まさか起き出しているとは思わなかったのか、見覚えのある酒場のマスターに扮していた男がドアを押し体を半分部屋に入れた体勢のまま固まった。
 もいきなりのことに驚くが、こちらは一瞬だった。
 この好機を逃すほど場慣れしていないわけがない。
 踏み込み一つで懐に潜り込み下から突き上げるように一閃、回転を掛け振り向きざまに蹴りあげた踵が男の顎にクリーンヒットする。
 そのまま仰け反るように倒れ伏した男を見下ろし、半眼を向けた。
 足元で軽く痙攣しながら寝そべるその男の服装が最後に見たものから変わっていない為、やはり自分が捕まってからそんなに長い時間は経っていないようだと確信する。
 の胃袋はなんて正確なんだ、と内心感心しているに、男は空気混じりの声を漏らす。
「く……っ、何故もう目を覚ましている!?象だって半日は起きないはず……!」
「悪かったな。はひとより丈夫なんだよ」
 本気で驚いている様子が気に食わなかったのか、は言い捨てざま男の横腹を蹴った。
「で?何があったの?」
「知らん!いきなり襲撃されたんだ!」
「……ふうん?罰があたったんじゃね?」
「この……っ、小娘が!」
「ぉわ!?」
 油断していたところ足を掴まれ、引っ張られる。
 咄嗟に腕を突っ張ろうとしたが、そうだ縛られたままだったと歯噛みする。
 その為に頭を床へ強かに打ち付けてしまい、星が飛んだ。
 無様だ、と思い情けなくなる。
 その上に男が覆い被さってきて、視界が回る中息が止まらない程度に首に節くれ立った指を食い込ませてきた。
 しまった、と思うが不安定な呼吸の中では結界の外だとしても力は使えなかった。
「はは……あんたさえ捌ければだんまり金が入るんだ。大人しくついてきてもらうぜ」
「あ……っ!」
「器量もそこそこだしな。結構な価値がつくだろうよ」
 ぞっとした感覚を覚え、は抗うように脚を振り上げる。
 だが予想されていたのか、それも簡単に阻まれる。
 やばい。まずい。
 混濁していく思考の中、自分の甘さに氷水をぶっ掛けてやりたい気持ちになっていた。
 そして、後悔していた。
 浮かんだ顔は、――……
「ここは隠し扉の向こう側だ。誰も来や……」
「あれで隠しているつもりとは随分とお粗末ですね」
「なに……っ!?」
 男が動揺しの首にかける手から力を抜いて顔を上げた瞬間、その体が派手に廊下の奥へと吹き飛んだ。
 数度の衝撃音と重く擦れるような音が止んで数秒、やや離れた場所から情けない呻き声が上がった。
 それを耳で拾いながら、は2、3度咳込む。
 その間、かつ、かつ、と聞きなれたブーツの音が近付いてきて、耳の脇で止まった。
 は横向きになり背を丸め、荒れた息を整えようと震える瞼をぎゅっと閉じていた。
 背後の気配に指先が震える。
 振り向くことなんてできない。
「――ここにはじきに国連直轄の警察機構がやってきます。逃げられませんよ」
 這いずりながらなお、みっともなく逃げようとしている男に冷ややかな声突き刺さる。
 その冷徹とも言える台詞でついに観念したのか、男の頭ががくりと下がり動かなくなった。
 衣擦れの音がし、彼が背後で膝をついた気配を感じた。微かな風が手首を掠め、圧迫感が消える。
 自由になったが痺れたままの腕を無理矢理引き寄せ、目元に押し当てる。
「……来るのが遅くなってすいません」
 謝る必要なんてないのに。
 カイは馬鹿みたいに申し訳なさそうに呟いた。
 そっと目を開ける。
 きっと後ろでは声の通りに顔を曇らせているのだろうな、と考えながら床の隅に溜まった埃を見つめる。
「立てますか?」
「……ごめん」
「何で謝るんです?」
「叩くつもりはなかった。ごめん」
 やや早口に言い切り、はカイから顔を背けるようにしながら上体を起こした。
 だが、そこで精一杯だった。
 頭を打ち付けたせいか、ぐわんぐわんと視界が揺れる。
 思わず呻くと、カイの手が背中に添えられた。
「……私もあんなことを言うつもりはありませんでした」
 背中越しに聞こえた声に、は反射的に再度目を閉じる。
 彼女のふらつく上体を支えるようにカイが移動して肩を貸す。
 は一度躊躇するが、カイの手が背中を押したことで諦めて従った。
 カイの肩口に頭をもたげ、深くゆっくりと息を吸う。
 ふと、カイの指が首筋に触れた。
 びくん、と過剰なまでに反応する自分に自身驚く。
 その反応に彼の指が止まったが、再び何かをなぞるように滑らされた。
 指先が妙に冷たくて、無意識に首をすぼめてしまう。
 痣が……と呟く声に、ああ、首を絞められた時のか、と思い当たる。
 大丈夫だよ、とくすぐったく動く彼の手を取ってどかせる。
 そのつもりだったはずが、一瞬の隙に手首を捕らえられてしまう。
 その部分にも、縛られていた為の跡がうっ血していた。
 少し驚きながらは頭を浮かす。
「貴女のことが心配なんです……」
「……だーから大丈夫だって」
「今だって見付けた瞬間心臓が凍りつきそうで……」
「うんまあ……生命の危機だったかもね」
「何でそうやって軽いんですか!自覚なさ過ぎです!」
「わ、悪かったよ……だから耳元で怒鳴らないで、頭に響く……」
「どうして貴女という人は……っ!」
 怒っているのとは違う、どこか切羽詰まったようなカイの様子には妙な居心地の悪さと焦燥を感じて仕方がなかった。
 握られた手が少し汗ばんでいるから、きっと本気で心配してくれたんだろうとは思う。
 それに対しての申し訳なさもあるのだが、それ以上に別の何かがを落ち着かなくさせていた。
 その何かの正体は分からないが、とにかく今はこの状況から一刻も早く離れたくて仕方がなかった。
 こんなところに長居する必要もないわけだし、さっさと引き上げるべきだ。
 どうやら時間が経ったおかげで頭も大分はっきりしてきたことだし、もう自力で立つこともできるだろう。
 身を捩り、それを察知してか、カイが先に立ち上がりそっと気遣うように腕を引いた。
 は引き上げられた瞬間に貧血のような目眩を感じたが、ゆるゆると被りを振ってそれを取り払う。
 その時またカイが心配そうな顔をしたが、それには小さく笑って答えにした。
「……よくここが分かったね」
 カイに手を引かれ廊下を進む途中でそんなことを聞いた。
 それに対して彼は「メダルの発信を追ってきました」と答えた。
 そこで不意に、通信用のメダルが定位置(服の中)にないことに気が付く。
 途端に慌て出すの眼前にカイが一拍置いてメダルを差し出し、ほっと胸を撫で下ろす。
「あのリーダーらしき男の側近が持っていました。
 おかげで貴女の居場所を見つけるのに少し時間がかかってしまいましたが」
「ほうほう。便利だね~こいつも」
 そう言ってから、おっと!とは口元を押さえた。
 また軽いとか何とか文句を言われそうな気がしたからだ。
 だが身構えたのにも関わらず、カイからお小言が降ってくることはなかった。
「……逆に言えば、これがなければ貴女を見つけられなかった」
「え?まあ、そうなるのか……」
 目に見えて落ち込むカイに、は虚を突かれた面持ちで気まずげに相槌する。
 いつもならばこういう時は少しばかりブラックなジョークを飛ばして重苦しい空気を排除するのだが、どうやらそれをしていい空気ではないようだった。
「不用意に貴女を傷つけて危険な目に合わせたのは私の責任です」
「いや何もそこまで」
「貴女を疑ったわけじゃないんです」
「……」
「ただ、、私は」
 ――ああまた、痛い、って顔してる。
 何が痛いのかは分からなかったが、こちらの方が辛くなる気がした。
 ひゅ、と心臓が縮こまるような微かな痛みを感じ、は見ていられなくなって手を伸ばした。
 暗闇の中でも際立つ金糸の髪に触れ、そっと撫でる。
 何故か、こうすれば落ち着く気がしたのだ。
 楽になればと思ってしたことだったが、俯く前髪から覗く口元は変わらず何かを耐えるようにぎゅっと閉じられていた。
「……何でそんなに辛そうなの」
 あやすような口調で、自然と口から零れたその言葉。
 にとっては何気ない一言だったが、カイの顔色を変えるには十分だった。
 ゆっくりと上げられた顔に浮かぶ表情は、戦場で大勢を指揮し絶対的不利な状況でも果敢に前線にて道を切り開く聖騎士団団長のものとは全く違っていた。
 星明かりも差し込まない仄暗さが相俟って言い知れぬ不安がの中に広がる。
 引き結ばまれていた彼の唇が小さく戦慄き、僅かに充血した目がへ向けられる。
 そう、泣きそうな、縋るような顔で。
 それを正面から真っ直ぐに見つめ返すの瞳には、未だかつて見知らぬカイの姿が映っていた。
 彼の腕がの背中に回される。
 細かく震えるその腕が痛々しい。
 僅かに浅い呼吸に合わせ触れる体が微かに上下する。
 頭をの首筋に押し付けるように埋めるカイの背中を、彼女は一度ゆっくりと瞬きをしてからぽんぽん、とそっと叩いた。
 その表情に少しの寂しさを滲ませて。

 夜の静寂が2人を覆う。
 互いの息遣いだけが狭い廊下に響く。
 肩にかかる重みに、何故か泣きそうになった。
 そして同時にまた胸が痛んだ。
 ――その痛みで、は一番の親友を失くしたのだと悟ることになった。