気を紛らわそうとして、ドツボにはまる?
膝を抱えたまましばらくじっとしていたら、外気に触れている指先が冷たくなっているのを感じた。
ああそっか、もうすぐ年の瀬という時期だった、と温めるように手を握る。
カイの頬を叩いた感触は残っていなかった。覚えていないともいう。
本当に、考える前に体が動いてしまったらしい。
肌に染み込むような寒さのお陰で冷静になってきたのか、
はようやく事態を理解しだした。
その途中、最後に見たカイの表情がよみがえる。
きっと彼は、相性のすこぶる悪いソルの名を聞くなり眉を吊り上げるだろうと思った。
そして規律だ規則だとまたお説教をし始めるだろうと。
でも、実際は予想と違い過ぎた。
怒るでもなく呆れるでもなく、冷たいまでの無表情だった。
あんな顔を向けられたのは初めてだ。
不覚にも身震いしてしまった。
その後に、突き刺さるようなあの言葉。
「てっきり、あんな悪人面の素行を真似してはいけません!とか言うと思ったのに……」
カイのその反応だけが、今だに理解できなかった。
もしかして、本気で怒った故の無表情だったのだろうか。
……いや、そんな感じでもなかったと思う。
今まではなかった雑音がしてきて、うるさいと思いながら更に深く顔を埋めた。
怒っていたのなら、あんな風に笑ったりしない。
仮に怒っていたとしても、あんな痛そうな顔をする意味が分からない。
……痛そう、だった?
周囲で、音が徐々に増えていく。
何が痛かった?
カイがそう感じる理由なんてなかったはずだ。
……なら、いったいどうして。
「なーんか辛いことでもあったのー?」
辛いなんて……あんなこと言われたこっちの方がきついっての。
カイは一番最初に否定してくれたはずなのに、今更になっておかしいよ。考え曲げんなよ。
……あれ、どうしよう急に腹が立ってきた。
「震えてんじゃーん。泣いちゃってんの?」
「誰も泣いてないよさっきからうるさいな」
ずいっと顔を上げて今喋ったそいつを睨み上げる。
感じていた気配通り、数は二人。
もう片方はいきなり反応した
に軽く驚いたように一歩引いていた。
しつこく話しかけてきていた男、つまり今彼女が睨んでいる方は表情だけ驚いているもののすぐにけらけらと笑いだした。
「気ぃ強~!ねえねえ、ひとりで何してんの?」
「
今機嫌悪いんだ。どっか行ってくれないかな」
「あ?調子乗んなよ。心配してやってんじゃん」
そう語調を強めて言い、男の手が無遠慮に
の肩へと伸びた。
だが、呆気なく宙を掴む結果となり、瞬き一つの間に
はその男の脇に立っていた。
すると今度は今まで黙っていたもう一人が
を捕まえようとした。
それも難なく避けると、
はそれらを無視してすたすたと路地を進んだ。
「おちょくってんじゃねえよガキが!」
少し前まで身近にあった粗暴とも言える空気を一瞬ばかり懐かしく感じてから、
は向けられた刃を振り向きざま蹴り落とした。
そのまま着地させず反動なしで同じ足を突き出す。
それでも十分な衝撃はあったようで、倒れ込んだ地面で二回転半してから男の体が止まった。
今吹き飛んだのは喋っていた方。
そばで立ち竦むもう一人の方がまだ物分かりが良かったようで、
へと向かってくることはなかった。
「ったく、おちょくられた時点で違いに気付きなよ」
ふん、と興味もなさそうに言い捨て背を向ける。
まったく面白くない。
今日は災難だ。
ポケットに両手を突っ込んだまま路地を進み続けると、少し開けた場所に出た。
昼間は市が立つのだろう、年季の入った木製の屋台がずらりと並んでいる。
その向こう、広場から続く路地の一本を少し入った辺りに一か所だけ明りが灯っているのが見えた。
この時間と雰囲気から見て酒場かな、と思い、今日の目的が食事だったことに気が付く。
「……あー……そういや放り出してきちゃったんだよなぁ」
かといってすぐに彼を探しに戻れるかといえばそうでもなし。
はっきり言って気まずい。それに若干の苛立ちも残っている。
どうしたものか、と悩みながらも腹は減る。
――よし、食べてから考えよう。
持前の前向きさ(正直さともいう)で
はこの近辺にしては品のいい外観をした酒場の扉を押した。
「でねーマスター。誘導尋問なんて卑怯なことをするわけさー」
「そりゃ酷い上司もいたもんだな」
「だよね!そう思うよね!」
「おじょ……お姉さん、そんなに飲んで大丈夫かい?」
「だーいじょぶだって。
酔わないからー」
マスターがライムにナイフを入れながら言う。
その際お嬢さん、と言いかけて訂正したのは、一度そう呼んで
に直されたからだ。
の視線がマスターの手元で止まり、にやりという笑みが浮かべられる。
「ちょうどいいや。テキーラ、ショットでちょうだい」
「……飲むねえお姉さん」
「飲まずにやってられるかー!あははー!」
「本当に酔っぱらってないかい?」
「平気だってば。何なら今ここで法力使ってみせようか?」
「遠慮しとくよ。
でも法力ってことは……もしかしてあんた、賞金稼ぎかい?」
手を休めることなく、ただし一拍の間を置いてから尋ねるマスターに、
はカラコロと氷だけになったグラスを転がしつつ頬杖をついた。
その間の意味は考えるまでもなく、年齢的な意味だろう。
そのせいで仕事の際に依頼人に不安がられたことも懐疑的な目を向けられたことだってあったな、と幼さの残る顔で遠い目をする。
「まあ、ちょっと前までね。今は休業中」
「そうかい。それは残念」
「へ?」
何やら沈んだ声を出すマスターに、
は首を傾げる。
その際妙な浮遊感があったが、アルコールが回ったせいだと思って気にしなかった。
「実はな、少し前からこの近辺で妙な連中がうろつきだしてな。どうやら人身売買してるって噂でよ」
「へー」
「中でもジャパニーズを専門にしてるらしい」
「はぁ?そんなにわんさかいるもんじゃないだろうに」
「そりゃな。コロニーに匿われている人種だしな。だが、本物かどうかは問題じゃない。
ジャパニーズに見えりゃいいんだ。それで物好きな奴らは大金を出す。
髪なんて染めりゃいいんだし、目の色だって何とでも言い訳がつく」
「そんなもんかねー」
「そんなもんさ」
頬杖をついたまま間延びした相槌を打つ
に、マスターはニッと笑う。
「例えば―――お嬢ちゃんみたいにな」
それを合図にしたように。
場の空気が一変する。
「……あーあ、せっかく美味しいお酒飲んでたのに台無し」
「最後の晩餐にはもってこいだったろう?」
マスターがカウンターの奥に一歩下がる。
は自身の座る備え付けのスツールを回転させ、くるりと無邪気な様子で振り返る。
まばらな客たちは、どうやらみんな桜だったようだ。
……本気で災難だ、と頭を抱えたくなったが、そうも言っていられない。
カタン、と軽い音をさせて床に足を着き、溜め息交じりで腰に手を当てつつマスターへ目だけ向ける。
「まったく何処から仕組まれていたんだか」
「あんた、来る途中絡まれたって言ってたろ?そこがひとつ目だ」
「あー、あの弱っちいの」
「てめえ言わせておけば!」
「あ、いつの間にかいるし」
おお、とあまりの興味の薄さに気が付けずにいたそいつらを見てやや目を丸くする。
それが更に神経を逆撫でたようで、顔を赤くさせ歯を噛み締めていた。
「そこで捕まえればよし。逃げられたのなら唯一明りのあるここに逃げ込んでくるはずだからそこで捕えればよし。もしそいつらよりも腕っぷしが強ければ―――後は神頼みだな。
そんなわけで運が良かったな、お嬢ちゃん」
「……ああそうだねラッキーだ。いい発散理由が見つかったよ」
「ああ?何だって?」
「それに比べてあんたらはツイてなかったみたいだね、残念でした」
「ふん、いきがるのも大概にしておいた方が身の為だぜお嬢ちゃん。
多少腕が立つみたいだがこの人数だ。無駄な傷は付けたくないんでね」
「あらー勝った気でいるな……よ、っと!!」
突如、室内に暴風が発生した。
派手な音を立てながら椅子を薙ぎ倒し、皿を飛ばし、窓ガラスが割れ、酒瓶が次々と無残に砕ける。
それを少しもったいなく思いながら、更に力を込めた――はずだった。
「ぐ……っ?」
視界がぐらついた。
思わずたたらを踏み、集中が切れたせいで風が止んだ。
その隙に、背後から手が伸びる。
ぼやけてはいても意識があるせいか、それを1度は振り払った。
態勢を立て直そうと構えを取るが、それすら自分の神経が及ばないところで勝手に動いているようにしか感じられない。
そして焦点の合わない視界が急に低くなり、足元から地面が消えた気がした。
倒れたのだと気付いたのは、見下ろしてくるマスターの目があったからだ。
「ジャパニーズはその気の力を恐れられギアに滅ぼされた。手を打たないはずがないだろう?」
薬か、とほいほい酒を飲んでいた自分を思い出して歯噛みする。
笑うな。
触るな。
暗転する意識の中、
は無意識に彼の名前を呼んでいた。