Fortune 35


 大事なものを、選んだ――――そう、単純な理由。



『知りたいから――――今は行かない』
 透き通った満月の空の下、淀みのない強い眼差しでそう答えれば、彼の表情がゆっくりと動いた。
『……そうか』
 どこか満足げに、もしかしたら自嘲気味に、その一言が落とされる。
 二人は瞬き一つせずに向き合ったまま目を逸らさない。
 波の音が静かに打ちつけられる。大潮の割には大人しい音色だ。
 その上空には黄金の月。その強い月明かりが逆光となり、彼の表情が伺えない。
 しかし辛うじて判別できる瞳だけは、月光に劣ることなく強く輝いていた。
 は思う。
 この人は、きっとを“今の”以上に知っている、と。
 確かめたわけじゃない。それを感じたきっかけだって、の思い込みに過ぎないかもしれない。
 でも確かに感じるのだ。理屈じゃない。
 ――そう、だけれど、確証もないのが現実だ。
 ここまで強く感じていながらも、ソルの口からは何一つ、核心は得られていないのだ。
 だからこれは――そう、の期待でしかない。
 ぶっきらぼうながら自分を気にかけてくれるこの人が、自分の過去に関わっているといい、と。
 そうであって欲しいという願い。
 彼が手掛かりの人だから、ではなく、手掛かりの人が彼であったことが、嬉しいのだ。
 例え、それを隠されたとしても。
 それに……これはの勝手な想像だが、彼はを何かから遠ざけるようにしている感じがするのだ。
 まるで知らない方がいいとでも言うかのように。
 知ることで起こる変化を避けるかのように。
 だから、はっきりとさせないのだと、そう感じる。
 ――その『何か』と彼の言わなかった『話せない理由』がとても近い位置に存在しているということも、間違いではないはずだ。
 あくまでこれも直感でしかないが……こうも強く感じるのだ。気のせいなはずがない。
 故にもしも、が自身の手でその理由を探し当て、自身の意思で知ることを選んで……それでももう一度、ソルに聞いたなら――その時は……


 気が付けば、奥歯を噛み締めていた。
 こめかみのあたりにむず痒い震えがあることに、言い知れぬ不快感があった。
 数秒思考に耽っていた自分を振り払うように、は左右に大きく頭を振った。
 そして、彼を見据える。
『ソル、いつか必ず追い付くから。そうしたら、きっとまた……』
 だが、うまく言葉が繋がらない。
 もどかしさに眉を顰めて立ちすくめば、
『辛気くせえよ』
 ずいと彼の鍛え抜かれた腕が伸びてきて、わしゃわしゃといつかの時のように髪が撫で回される。
 相変わらず力加減がなっていないせいで頭が揺れるし髪も引っ張られる。でも、その重みや暖かさは不思議と心地よかった。
 目頭が熱くなって、らしくない自分が嫌でぎゅっと目を閉じる。
 頭上で笑った気配がしたが、目を開けることができなかった。
 やがて彼の手が離れ、は咄嗟にそれを掴みかけて、やめた。
 自分は決心したのだ。今は彼の手は取らないと。
 その分じっと、彼の背を見つめた。
 自分から見える後姿だけでは、ソルの視線がどこを目指しているかは分からない。
 だがきっと、遥か遠く、自分の考えも及ばないような場所を目指しているに違いない。
 足が踏み出される。
 音が遠のく。
 気配の残り香が薄くなってゆく。
 その途中、彼の片手が気だるげに肩口まで挙がった。
 そして、――


 手の中で、ジャラリと鎖を転がせた。
 は今、訓練場に向かっていた。
 あの騒動が起きた夜から五日後、やっと彼女の謹慎も解けたのだ。
 だがその足取りは重かった。
 というのも、騒動が起きた際の点呼に応じなかったことが騎士たちの間に波紋を呼んだらしい、というのを知っていたからだ。
 彼女はソルの逃亡の共犯者だとか、神器の隠し場所を漏洩したのも彼女だとか、実はとソルはそういう間柄であるとか、更には彼女はソルに捨てられた、などという様々なとんでもない憶測というか邪推が繰り広げられたのだ。
 特に最後の二つは、後から知った本人が青筋を浮かべるような類であった。
「あることないこと盛られてるなぁ……神器の隠し場所なんて知らんっつの」
 ひとりごち、溜息ついでに頭を抱える。
 これは、本当だった。
 逃亡の共犯者云々はまあ、強ち間違いでもないので触れずにおくが、神器関係は誓って自分じゃない。
 ソルのことだからおそらく自分で探し当てたのだろう。
「……ったく、余計な噂ばかり立てやがって」
「まったくその通りです」
「うぇいっ!?」
 急に表れた声に不意を突かれる。
 が振り返る先には少し困り顔のカイがいた。
「今回のさんの謹慎理由は『夜間無断外出』となっているので奴に加担したことは公にはなっていませんが……皆馬鹿ではありませんし、何かしら感じ取っているでしょう。
 もしかしたら数日は風当たりが強いかもしれません」
「うー……ある程度は覚悟していたけれど嫌だなぁ」
「それよりもさん。五日振りですね」
「ああそうだ――……っ!」
 文字通り一瞬で、は彼から10歩分以上の距離をとった。
 それにカイは呆気にとられた様子だ。
 対する彼女は、突如ギアと遭遇したかのように警戒心を剥き出しにしている。
「一体どうしたんですか?」
「それ以上近付くな!」
「いきなり酷いこと言いますね」
「酷くない――ってぇ!来るなっての!」
「嫌ですよ。こんな距離じゃ会話も出来ないですし」
「出来てるじゃん!今、現に!」
「建物内で大声を出すのは褒められないですよ」
「大声じゃない!ちょっと大きめの声だ!」
「それ同じです」
 つかつかつかとカイが近寄れば同じ分だけも後ずさる。
 傍から見たら何か新しい遊びのように思えなくもないが、彼らの間には不穏な空気が漂っている。
「……逃げるほど私が嫌ですか?」
「え……」
 ふと、寂しげに呟かれた言葉にが戸惑った瞬間。
「さて、これでやっと話が出来ますね」
「な……騙したな!ずっこいぞ!」
 がっちりとの手首を掴み、カイは殊更綺麗に笑った。
 それに彼女は悔しさからかわなわなと震えている。
 そんな様子を見てカイは微笑んではいたが、すっと目の色だけが変わった。
「……どうして、行かなかったんですか?」
 いきなり核心を突いてきた質問に、準備のなかったは予想を裏切らず面白いように焦りだす。
 視線を合わせないように横を向き、忙しなく瞬きを繰り返しながら眉間にしわを寄せ始めた。
 そしてカイは、投げかけてからここが人通りのある回廊だと気付く。
 流石に人に聞かれるのも憚れると思い、近くの一室へと彼女の手を引いて姿を眩ませた。
 彼女の手を放し、椅子を勧める。だが彼女はそれを通り過ぎ窓枠へ腰を落ち着かせた。
 カイもそれに続き、あと一歩のところまでへ近付くと、向かい合う形でテーブルの端に浅く座った。
 普段の彼では決してしないことだが、ここには自分達しかいないし、彼女に見られたところで何の問題もないので、今はマナーに関しては構わないことにした。
 つと顔を上げると、もこちらを見ていた。
 窓枠とテーブルとの段差があるせいで彼女の目線の方がやや高い。
 いつもと違う見え方に少し鼓動が速くなるが、表には出さない。
 今さっきの問いの答えを促すように、カイは真っ直ぐを見つめ返した。
 そして、
「……知りたかった、からだよ」
「知りたい……から?残ったと?」
 ややあって、紡がれた言葉はカイにとっては少しばかり不可解なものだった。
 は元団長であるクリフに拾われる以前の記憶が抜けていると言った。
 そして以前一度ジャスティスと対峙した時、奴が自分の記憶の手がかりを持つかもしれないと、そしてそれを知ろうとするのをソルが邪魔したと――要するに、ソルも手掛かりかもしれない、と、自身がそう言ったはずだ。
 それならば、何故。
「そうなんだよね~……も不思議だよ、自分の選択が」
 くく、と眉尻を下げながらは小さく笑いを零す。
 そして軽く溜め息を落とした。
「でもさ、どうしてか――アレよりソルのが難攻不落に思えたんだよ」
「アレ……?」
 の指すアレというのが何なのか一瞬分らず無意識に鸚鵡返しをしていた。
 しかし一呼吸後、カイは半眼に近い目つきのまま頬を引き攣らせた。
 その様子に、カイが正解に思い至ったのだとは判断し、答え合わせをするようにその名を口にした。
「そうそう、ジャスティス」
 さらり、と昨日の夕食のメニューを答えるときのように軽く言い放たれた、名。
 笑いさえ含みながら言われたその名に、カイは露骨に嫌悪感を顕わにした。
 その反応には少し焦りを見せる。
「いやいや、違うよカイ。別にジャスティスを軽く見てるわけじゃないから」
「いえ、そういう意味ではありません。ただ……その名を聞くと過剰に反応してしまって」
「そうだよな……ごめん。無神経だった」
さんが謝ることではありませんよ」
 カイにそう言われ、は困ったように笑った。
 その次に、少し笑みを薄くして、
「……それに、ジャスティスは聖戦の始まりの存在で、頂点で……結局奴と対峙して、倒すことがこの戦争の最終目標だろ?だとしたら、個人の目的と、の今いる聖騎士団の目的は重なるから……それならここで、カイ達と一緒にジャスティスを追うのがいいかなって、そうも思ったんだ。
 ……もちろん、個人の方はついででいい。優先は、聖騎士団の使命の方だよ。ただ、聞けるものなら聞き出したいな~っていう、甘い考えなのさ」
 言いながら居心地が悪くなったように、は片膝を引き寄せ、額を埋めた。
 本当は、もうひとつ、理由はある。
 けれど、今言ってやるつもりはなかった。
 幾度か呼吸を繰り返し、落ち着いたところでちらりと隙間からカイを盗み見た。
 けれど居たはずの場所に彼の姿は見当たらなかった。
 あれ、と思い上体を起こせば。
 ふわり、と体の左側から温かいものに包まれた。
「それは甘いのではなく、貴女がそれだけ望んでいるということでしょう?
 ならば、私は出来得る限り力になりますよ」
「カイ……?」
 小さく彼の名を呼べば、触れる指に微かに力がこもった気がした。
 ふと、あの夜の感覚が蘇る。
 先ほど逃げた原因もそれであるが、カイはあの時も、を心配して傍にいてくれた。
 突然のそれに驚いて技を仕掛けてしまったのは……まあ、仕方のないことだと思って欲しい。
 でも、正直のところは――
「ありがとう」
 右肩に添えられた彼の手に軽く触れ、呟く。
 一瞬、カイが息を呑んだ気配がした。
 その隙に彼の包囲からするりと抜け出す。
「――と、いうわけですな。
 それじゃあは先に行くよ。本番前に鈍った体ほぐしたいからさ」
 そう言い、カイの返事も待たずには部屋を出て行った。
 ぱたぱたというコミカルな擬音が似合うようなそれが遠ざかっていくのを右から左に聞き流しながら、残されたカイはぽかん、とした表情で固まっていた。
 そうして数秒、忘れていた呼吸を再開させた頃、急にがたり、と窓ガラスに背を押しつけた。
 口元を覆う掌が小刻みに震えているのが自分でも滑稽だった。
 実は、がどうして警戒しているのかも知っていたし、ならば少しの寂しさは我慢して距離を取ろうと思っていた。
 その筈だったが、つとつとと語るを見てはこの手で支えずにはいられなかった。
 彼女のその細い肩にかかる重みを少しは肩代わりできたらいいと、そう思って。
だから、あの夜のように(一撃必殺はないとしても)撥ねつけられても構わないとも思った。
 だが……予想外の反応をした彼女に、面食らってしまった。
 驚いたせいであっさり彼女の肩を放してしまったが、今更後悔しても遅い。
 口元から手をずらし、両の目を覆う。
 肺に溜まっていた息を大きく吐き出す。
 とりあえず、あと10分はこの部屋から出られないなと、カイはひどく冷たく感じる窓ガラスに寄りかかったままゆっくりと空気を吸い込んだ。