Fortune 34


 知りたかった。だけれど、どうしてか、――置いていけなかった。



 ゆらりと、月光が傾いた気がした。
 は一人、空が白むほど明るい満月の下にいた。
 足を宙ぶらりんにさせ腰掛けているのは城壁上部の欄干だ。人気はない。
 この場所が夜間警備の順回路から僅かに外れていることを彼女は知っていた。言わば死角。だが、ここは外部から見ると何層もの警備網に囲われた場所であり、侵入対策としては警戒を必要とする地点ではない為は気が付いてはいたが上層部への報告はしなかった。
 それが今、内からの侵出に対し盲点となろうとは、何とも都合がいいというか複雑な心境だと、薄い笑いを浮かべた。
 夜風が湿った潮の香りを運んでくる。
 少し冷えるな、とグローブに覆われていない右上腕を摩る。
 まだ息が白くなるほどの季節ではないが、それでもこの時間になれば日中と比較して気温もかなり低下するようだ。
 視界に広がる夜の風景に小さく息を落とす。
 星の瞬きとは違う、地平線の手前にちらりちらりと点滅する明かりは防御結界塔のものだろうか。
 昼間見える位置よりも少し遠く感じる。
 空の闇を吸い込むように映す海面も、今日は少し遠くに移動している。
 そのせいでいつも聞こえる波の音すら届かない。
 ……静かだ。
 でもは知っていた。この静けさがあと少しもしない内に砕かれることを。
「……だから、今日を選んだのか」
 海水が消え去り砂地が露になった周囲をは感心とも呆れとも言える表情で見渡した。
 今日は月に一度の干潮の大潮の日。
 月が地球に近付き海水をその重力で引き寄せるのだという。
 だから、きっとあの月の真下では集められた海水が膨れるように量を増し、こことは真逆の満潮の状態になっていることだろう。
 海に囲まれたこの騎士団本部は自然による防衛機能の高さも特徴であった。
 もちろん、水面下で活動するギアも存在はしているし空を飛ぶ種も多い為万全ではないのだが、少なくとも陸上で活動するギアたちに対しては効果があるといえる。
 以前は陸からこの孤島に土手伝いの道が一本掛かっていたらしい。だが、それは取り壊された。
 今は、必要なときに現れそれ以外は水面下に沈み隠れるという本部で操作可能な法力原動のからくり橋があるのみだ。
 その為、通常本部と外界は遮断されている。
 だが当たり前に住民もいるので、一日に数度橋は上がる。しかしそれだけだ。
 普通はそれ以外の方法でここを出られるはずはない。
 でも今はどうだ。
 陸と砂地で繋がっている。
 当然今日のような場合、地上からの侵入に対しての別種の防御結界も敷かれているはずだ。
 だとしても、選択肢が一本の橋から360度広がる大地になったのだ。
 厳重な結界だろうと、抜け道が見つかる可能性が増えるのは確かである。
 ばさり、と強く吹いた風にケープがはためいた。
 一緒に流れた自分の髪を見て、ここに来た当初よりも結構伸びたなと感心する。
 もう半年以上、ここにいるわけか。
 今まであの町以外に長い間留まったことなどなかったからか、感慨深い気持ちが沸いてくる。
 可笑しな感覚だ。
 物思いに耽っている間に、月がどんどん高くなっていく。
 満月だからだろうか、いつもより大きくはっきりと見える輪郭をは無感情な瞳で見上げる。
 ――振り返らない。
 足音が背後で止まる。
 ――瞳を閉じる。
 あと少し、彼が来たことには気付かないでいたかった。


 大切なものほど大事にし過ぎて、結局は後一歩が踏み出せなくて――なくしてから、後悔しても遅いのに――
 もう、第一報から30分は経過した。
 夜風の冷たさが、混乱した頭に刺さるようだった。
 この何も映さない夜の海が、まるで自分の中にそのまま流れ込んできているかのような虚無感だ。
 取り残された、とでも思っているのだろうか。
 自分が今どんな感情でどんな表情をしているのか分からない。
 どん、と城壁に倒れるように凭れ掛かる。
 冷えた手で無造作に髪をかき上げ、俯いた。喰いしばる歯の間から呻きに近いような音が漏れる。
 脳髄に不快な鈍い響きが伝わり、苛立ち紛れに壁に拳を打ち付けた。
 何度も、何度も繰り返し、血が滲み痛みがぼやけてきたところで、止めた。
「……見苦しいな」
 本当に、情けないほど女々しい。
 自分の力のなさと、不甲斐なさ、そして失った悲しさの苦しみを耐えるように、自嘲の笑みを浮かべた。
 こんなにも、一人を特別に思い、打ちひしがれる自分がいるなど、少し前までは想像すらしなかった。
「どうして行ってしまったんだ……」
 カイは顔を歪め掠れた声を搾り出した。
……ッ!」
 悲痛な声に返事はない。
 カイはしゃがみ込みたいのを堪えて手で顔を覆う。
 壁伝いに、影から抜け出すようにのろのろと足を進める。
 暗闇がこれほど恐ろしいものだなんて知らなかった。
「どうして……」
 彼女はソルと共に消えたのか。
 自分よりソルを選んだのか。
「どうして……っ」
 ――ソルにはあれが必要だったから
「何故奪った……!」
 ――欲しいって言って騎士団が素直にくれるわけないじゃん?だから強行したんだよ

 そこでカイははたりと動きを止めた。
 自問と自答が噛み合っていないような気がする。
 ――いや、そうではない。
 雲間から顔を出した青白い光が、影を伸ばす。
 その先端が、揺れた。
 恐々と、背後の門を見上げる。
 月明かりに照らされ自分を見下ろすのは。
「……さん……?」
「よっ」
 呆けるカイには困り顔で微笑んだ。
「……ごめんな。はソルのこの脱走、知っていて止めなかった」
 昨日、ソルから聞いていた。
 だけに話した。
 『……来るか?』
 でも。
 『やっぱりは一緒には行けないよ……』
 ソルに自分の過去の手掛かりを見出したのも事実。
 だけどこれでもう会えない訳じゃない。
 だからは、今やるべきことをと、決めた。
「本音はね、行く気だった――――けれど、残っちゃった」
 照れくさそうに笑って、はそこから飛び降りた。
 ――瞬間、カイが動いた。
「うぇっ!?」
 は予想外の彼の行動に吃驚して避けようとするが、重力には逆らえず(ついでに言うと法力を練ろうという発想にも辿り着けなかった)、飛び出してきたカイに突っ込んでしまった。
 打ち所が悪かったのか、星が飛ぶ感覚がした。
「……ってぇー……」
 痛い、とは言ったものの覚悟した程の衝撃はなかった。
 それもそのはず。
 の体の下にはカイがいた。
「ちょ、何で下敷きになって……!」
 はカイをクッションにしてしまったことに気付き、慌てて腕を突っぱねて上から退こうとした――――が。
 何故か退けない。
「あ、あのー……」
 背中にがっちりと腕が回され、は立ち上がるどころか身動きさえ取れない。
 あまりに動かないものだから、うっかり押し潰したせいで……と冷や汗が流れたが、ちゃんと生きているようだ。
 自分の下で上下する胸と少しばかり早い鼓動がそれを教えてくれた。
「もしもーしカイー?」
 ――反応なし。
 一体どうしろというのだこの状態……?
「あのー、もう放して欲しいなーなんて」
 やっぱり反応なし。
 ここまで無視されるとむっとするものがこみ上げてくる。
 ……だが待てよ。もしかしてカイは怒っているのではないだろうか。
 ソルの神器強奪と脱走の二重罪をは知っていて止めずに見逃したのだ。
 その確率は高いような……
 そう考えて途端に空恐ろしい感覚がして身震いした。
 そしてその身動ぎのせいかまた力が込められるものだから、は本格的に困惑し始めた。
「……えーと、逃げないからさ。とりあえず……」
 言い終わる前に更に腕がきつくなる。
 く、苦しい……
「……よかった……」
 息が圧迫される中、の耳はカイの擦れた声を何とか拾った。
 何、と聞き返したくても息が詰まって声が出せない。
 カイは返事がないことを気に留めていない様子で言葉を続けた。
「貴女まで消えてしまったと思った……」
 自分の体の下にあるカイの胸が大きく上下し、深呼吸したのだと分かった。
 ……本っ気で恥ずかしいのですが。
「ハナシテクダサイ」
「嫌です」
 ……即答しやがった!?
 何だか手強いぞカイ=キスク。
「離しません……」
 耳元で囁かれるように言われ、一瞬で体が硬直する。
 その硬直と同時に心臓が大きく脈打ち、顔面に熱が収束する。
「…………」
 やけに熱っぽい声に息が止まってしまった。
 カイの手が動けずにいるの背中から肩に滑り、為すがままに引き寄せられると米神に吐息がかかった。
 もう一度囁くように名を呼ばれ、ついにの羞恥の臨界点が突破された。
 ……い、いやだこんなの……!
 こんなの……――のキャラじゃない!!
「は……っなせこの野郎ーっ!!」
 ――カッッ!!


 数秒後、閃光と衝撃波が収まり、その中心に残されたのは――コゲた二人。
「……げほっ
 い、いきなり何を……」
「く……っ!ええぇーい寄るなセクハラ野郎め!!」
「せ……!?」
 のセクハラ発言にカイは衝撃を受けた様子で地面に手を付いた。
 一体何が起きたのかを説明すると。
 羞恥に耐え切れなくなったは巻き添え覚悟で大技――いわゆる一撃必殺――を至近距離でカイに向けて発動させたのだ。
 だが焦っていた為かかなり威力は殺がれていた(……でなければ今頃二人揃ってぶっ倒れていたはず)。
 は顔を真っ赤にさせて立ち上がる。
「……残ったのは失敗だったかも……っ!」
「な、何でですか!?」
「てめぇのせいだ馬鹿野郎!」
 言い捨てては叫びながら走り去っていった。
 カイは咄嗟のこと過ぎて追いかけられなかったが、の走っていった方向が宿舎の方だったのでほっと胸を撫で下ろした。
 そしてひとりぽつんと地面に座り込み、小さく笑みを浮かべて空を見上げる。
 そこには隠れていた満月が元通り、何食わぬ顔で浮かんでいた。