未来は幾つも分かれているかもしれない……けれど、過去はひとつ――――だから、さ。
『報告します!
最下層の立ち入り禁止区域に侵入の形跡あり!
扉は……法力による多重の施錠も丸ごと焼き払われたものと思われます!』
通信用のメダル越しの声は妙に作り物めいた音だった。
この向こう側の団員は団長であるカイに現状を正確にかつ完結に伝えようと必死に喋っているのだろうが、しかし、当の彼は無機質な冷たさを感じさせるメダルを手に、言葉が脳内をすり抜ける感覚に陥っていた。
おそらく、彼の耳には半分も届いてはいない。
だが聞かずとも、結論に手が届いてしまった。
遥か天空に浮かぶ月が照らす下、彼の表情は陰になって伺えなかった。
「焼き、払われたと……?」
『はっ!信じられないことですが、施術の法則を無視して強引に破ったものと推測されます』
「そうですか……」
自分の声すら耳から遠い。
知らず、目を閉じる。
いつか……いや、最初から、奴がここに現れたその時から、意識下で予想はしていた。
あいつが、そういう行動に出るだろうということは。
「――それで、内部の様子は」
『は……神器は、持ち去られております……っ!』
苦々しげな返答は肌寒さを感じる宵闇に空しく消えた。
――ソル
元々規律を守るような奴ではなかった。
サボりどころか無断外出、独断行動、命令無視――――数え上げたらキリがないとはこのことだろうかとカイが頭を抱える思いになったこともしばしばだった。
だが、今回のこれはそれらとはレベルの違う違反……いや、これは重罪だ。
許されることではない、法を犯したことに対して怒りを感じる横で、しかし、嫌に冷淡に情報の分析を始める自分もいた。
冷静……とは少し違う。
もしかして、少なからず落胆したというのか。
……いや、そんなこと、認めてもいないのにあるわけがない。
ひんやりとした窓ガラスに手を触れ、額を寄せる。
大きく息を吐き出し、自分の立場を今一度反芻する。
そして。
『畏れながら……これは外部の人間には不可能ではないでしょうか』
「ええ、そうでしょうね」
覚悟した様子で進言した内容がカイによりあっさりと肯定され、団員は二の句が次げなかった。
メダルの向こうの動揺を感じ取りながらカイは短く溜め息を落とす。
そして瞬時に対策を巡らした。
残留法力の余波から進入時間を割り出し、その時間帯の巡回経路を調べ、穴を見つけ、逃走に使うだろうルートを検索し――
「――――本部周囲の結界レベルを内側に向け最大に。何者も通してはなりません。
警護班は人員を建物の外に集結後、城下町までくまなく捜索。不審者は即時に捕縛してください。
法支援部隊、近接戦闘部隊は全大隊、即刻点呼を。まだ動く必要はありません。全員持ち場で待機するよう各小隊長に伝令を。急いでください」
最適と思われる対応を指示し、自身は身支度を整える。
団内の不安を大きくする必要はない。ここは少数、ピンポイントで事に当たる。
単独犯を捕らえるのには人員は多く、網を広げ徐々に囲い追い込んでいくことが定石――だが、敢えて逆の策を用いた。こういった想定外の緊急事態では末端の数が多くなればそれだけ指示が遅れ命令系統も滅茶苦茶になりがちである。混乱は避けたい。それに意外と頭の切れるソルのことだ、こちらの包囲網の綻びを見つけ掻い潜ることなど軽くやってのけるだろう。そうなったらそれこそ奴の思うつぼだ。
そして何より、奴にこの聖騎士団が引っ掻き回されることが気に入らなかった。
――ソル、お前は必ずこの私の手で捕らえる――
体の内に冷たい焔が灯されたように、カイは静かな怒りを感じながら団服を着込んだ。
最後にすっかり手に馴染んだ武器をその手にとって。
凛と、澄んだように思考が冴える。
この感覚がカイを団長へと完全に変貌させる。
……これでいい。これで、あいつは逃げ道をなくす。漏れはないはずだ。
――だというのに、この心臓の底が落ち着かないような、ざわめき沸き立つ焦燥感は一体何なのか。
執務室内でひとり、カイはメダルを握る手に力を込めた。
数秒、さざめく胸を押さえるようにじっと目を閉じる。
部下からの報告がこれほど遅く感じることは初めてだった。
胸の内の何かを抑えるように、ゆっくりと息を吐き出す。
目を開けると、視界の上端に潔いほど輪郭を浮き立たせた満月が映って自然とそちらに意識が向いた。
冷たそうな夜空に、煌々とその光だけが温もりをもっているかのようだった。
はっと、こんな時だというのに心虚ろに浸ってしまったことをカイを気付かせのは、再び甲高く鳴ったメダルの音だった。
反射的に目を瞬き、軽く頭を振る。
『次いで報告します!その……』
何だ、と歯切れの悪い言葉にカイは眉を寄せる。
そして、
『総員点呼の結果――――ソル=バッドガイともう一人、行方が知れない人物がおります』
――っくん
鼓動が一気に跳ねた。
一拍ごとに速さを増すそれが、耳障りなほどに脳に纏わり付く。
「……そのもう一人、とは」
辛うじて搾り出した声は確認するまでもなく掠れていた。
数瞬の空虚をおいて紡がれたその人の名は。
『
=
……団長補佐、です……』
予感は現実に。
悪寒が底冷えとなって身体を蝕んでいくようだった。
カイは聞き終るや否や一方的に通信を切り、団長室を飛び出した。
月齢15日の今日は望月。
真夜中のちょうどこの時間、宙の一番高い位置で輝く力強い光。
それが今はない。
ちょうど先程厚い雲に隠れてしまったのだ。
「どうして……」
あるはずのものがない不安。
その感覚に侵食されそうになりながら、カイは回廊を走り抜け飛行船の発着場である西側のテラスへと向かった。
そこからは第一級警戒網である多重結界が張り巡らされ終えたのが視認でき、強い風が渦巻く中、巡回用の小型飛行船の発進準備が進められていた。
そこで口早に指示を飛ばし、カイは再び駆けた。今度はテラスの先端に向かって。
船を整備中の団員が振り返ったと同時に白い衣が翻る。
誰かがあ、と声を漏らした。
だがその対象の姿は口を閉じる頃には階下の闇へと吸い込まれるように消えていた。
知りたい。それは好奇心なんて軽い気持ちではない。強く望んでいたのだと今になって気付く。
記憶を辿っても、その糸の先はある場所でぷつんと切れていて。
そこにうっかりぶち当たった時の落胆と恐ろしさは、何度経験しても慣れることなど出来なかった。
まるで鍵でも掛けられているかのように記憶の断片に触れられない。
自分の過去のはずなのに。
……知りたいんだ。
――まだ自分はほとんど知らない。
表面しか知らない。
少しは、本音と呼べるものも垣間見えたことがあった。
でもそれは見えただけで見せてもらえたものではない。
彼女の大切に思うものだとか、望むことだとか、心の奥ではどんな世界が広がっているのだろうか、とか。
まだ知らないこと。
教えて欲しい。
彼女をもっと知って、受け止めて、抱きしめられたなら、どんなに嬉しいことだろうか。
そう思っていた。
いつかそうなれたらと。
でも。
今その姿はない。
「どうして……っ!」
彼女の存在は不変だと思っていた。
あって当たり前になっていた。
何と傲慢な考えだろう。
「何でいないんですか……っ!!」
切れる息が喉を痛めつける。
呼吸の隙間から漏れる声も掠れる。
だがそんなことはどうでもよかった。
本部内を、そして今は外苑から城下町の城壁まで全て捜した。
しかし見慣れた彼女の姿は見つけられない。
不意に、癇に障る声が蘇る。
『追う相手が違うんじゃないのか?』
ああ、そうだ。
自分が追っていたのは、ずっと。
――団長として失格とも言える行動だ。
「
……」
彼の人の名を呟き、カイは天を振り仰いだ。