そう、これは傷痕――
さらに翌日、
はまたも睡眠不足だった。
考えていたからではない、考えたくともソルの言葉がリフレインするだけで考え出す前に混乱してしまうのだ。
結果、考えられないというおかしな理由で彼女は何時間も寝付けなかったのだ。
もう投げ遣りになって羊を数えてもみた。だが羊に圧死されそうにはなっても眠りは訪れてくれなかった。
その後やっと疲れのおかげで眠れたのが明け方。
実質小一時間しか睡眠という睡眠はしていないだろう。
羊に対して理不尽な怒りを覚えつつ、
はのそのそと制服に袖を通した。
これを着始めて半年以上……もしかしたらもうすぐ着なくなるかもしれないんだよな――そう考えてぎくりとした。
ぶんぶんと頭を振る。
だが寝不足の酸素不足な脳味噌には自殺行為に等しかったらしく、くらりとした眩暈のようなものを感じた。
「あーもー嫌になる……恨むよ、ソル」
ひとりごちた不機嫌な声音は、晴れ渡る朝の空にあまりに不似合いなものだった。
「おはようございます」
「……おはよー」
いつも通りの朝のやり取り。
食堂に現れた
にカイがまず挨拶し彼女が返す。
上司と部下という観点から見れば逆であるべきなのだが、朝が弱いのか大体いつも寝ぼけつつふらふらとしている
の目を覚ますようにカイが声をかける――それが彼らの間での習慣となっていた。
「……大丈夫ですか?顔色が優れませんよ?」
「……羊のせいだ」
「はい?」
「あのふかふかして一見気持ち良さそうな奴らに集団で押し潰されそうになった……カイ、寝るときに羊を数えるのは本気でやめたほうがいいぞ」
「はあ……」
要するに寝不足だから顔色が悪い、ということなのだろうか。
目を据わらせて(隈がうっすらとあるせいで凄みに拍車がかかってしまっている)をちらりと見つつ、カイはそう考えた。
「そんなに羊を数えるほど眠れなかったんですか?」
ごく自然な風を装ってカイは尋ねた。
それに
はぼうっとしていた視線を一瞬だけ鋭くし、「そりゃあ、女の子が夜眠れない理由なんて腐るほどあるでしょうが」と、お茶らけた様子で肩を竦めて見せた。
まるで暗に詮索するなと線引きされたような気がして、カイは痛んだ胸を無意識に押さえた。
反対に
はそこまで考えずにその言葉を発したので、いつも通りすぐに軽口が返されると予想していたのだが、カイの様子にあれ?と調子を狂わせる。
それきり何も言わなくなったカイを不思議がりながら、
は食べかけていた朝食に再び手をつけた。
――いくら寝不足だろうが訓練の時間はやってくる。
カイには休んでいてもいいと言われたが、一応これでも団長補佐とか何とか言う肩書きがついてしまっている以上、示しのつかないことはしたくなかった。
ちゃんと責任感ってものもあるんだよ、とカイに言ったら本気で感心されて少しむかついた……なんてことはまあ、置いておいて。
「……うぁ、いるし」
「何がですか?」
「え?あ?カイ、いつの間に??」
「さっきからいますが。……それより本当に体調は大丈夫なんですね?無理して倒れたりしないでくださいよ?」
貴女は前科持ちなんですから、と言われてしまい、
は左隣に立つカイに向け苦笑いをして後ろ頭を掻いた。
危なくなる前に休むこと、カイが無理だと判断したらすぐに休むことを条件に、訓練参加は認められた。
しかしカイは、彼女のことだから無理を無理と感じずに限界ラインを超えて(要するに倒れて)からやっと気付くのではないか、と懸念していた。
事実、その可能性というか予想が簡単に生まれるあたり、しっかり見張っておく必要があるだろうと思った。
それに――
彼女が『いる』といったのはおそらく別小隊のソルのことだ。
視線がそちらに向いていたことをカイは見逃さなかった。
こちらの意味でももちろん、彼女をそばから離さずにいなければと思う。
――どうやら
はソルを避けているようだった。
カイは二日前の目撃以来、
のそばを不自然にならない程度に離れずにいたが、大して苦労はしなかった。それは、彼女の普段を知っているカイならば尚更、
という人物の奔放さと気まぐれさ――すぐにふらふらとどこかにいなくなる――は理解しているつもりであったし、そのせいで捕まえておくのは困難であろうと踏んでいたというのにだ。
理由はすぐに分かった。
彼女は明らかに自ら行動を制限していた。というよりは、意識的にある一点に近寄らないようにしていた。
そのある一点というのが、ソルだ。
あの夜に見かけた時にはそれこそそういう関係なのかと思い言い表しようのない苦々しさが胸中に広がったが、どうやらそうではないようだ。
それに安堵しつつ、でも、ならばどうして隠すような真似を彼女がしているのかが気に掛かった。
あの時姿を確認した時点では、
はソルに対してそういった避けるような態度はとっていなかったように見えた。
――ならば、部屋に入ったその後、何かがあった?
あの後、廊下の角、奴の部屋が見える場所から様子を伺っていた。
ややあって部屋から出てきた
はひどく疲れた様子だった。
明らかに窓越しに見た様子とは違っていたのを思い出す。
何かを言われたのだろうか?
彼女をここまで動揺させたその訳は、一体何なのか。
考えながら、カイは無意識にソルに殺気を飛ばしていた。
それに
は少し遅れて気付く。
「お、おい?」
今にも放電し始めそうな勢いのカイに驚き、
は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「つ……っ!」
静電気が弾けた――なんてものとは比べ物にならない。
痛みより何より衝撃が彼女の手を弾いた。
「え?――!!」
何かの弾けるような音がして首を回せば腕を押さえる彼女の姿があって、自分のせいだとすぐに気付く。
無意識にしろ自分が彼女に傷をつけてしまったという事実に血の気が引いた。
「すいません!大丈夫ですか!?」
法力を抑え、慌てて
の左腕をとる。
いつも彼女がつけている二の腕までの長いグローブがところどころ電撃のせいか裂けてしまっている。
そこから覗く腕には――爛れたような傷が。
「早く処置室に!」
「――あ、待った!違う違う!」
反対の腕を取り言う前に駆け出したカイを
は慌てて踏ん張って止める。
つんのめるようして足を止めたカイの姿は中々に面白かったが、今はこの可哀想なくらいに罪悪感で真っ青になっている団長様の誤解を解いておかねばならないと嘆息し、彼に腕を解いてもらうと左腕のグローブを引き裂いた。
その行動にカイは吃驚した様子を見せたが、どうせもうこれでは使い物にならないのだ。だったら破ったところでどうってことはない。
「これ、今ついたもんじゃないから」
言って露わになった部分を見せれば、カイの顔が僅かに歪んだ。
確かに、よく見ればそれは古傷だった。
「な?だから大丈夫だよ。いきなりの電撃で吃驚したけど、怪我はしてないから」
はカイを安心させようとしているのだろうが、彼の表情が晴れる気配はなかった。
じっとその細い腕に絡まるように走る傷痕を目で追う。見えている部分は手首から腕の中ほどまでだが、おそらく肘の方まで、もしかしたら上腕にまで広がっているだろうという大きな傷だった。
「……だからいつもグローブを?」
「ああ――そうだね。見ていて気持ちのいいもんじゃないし」
それにやっぱり人目につくものだから隠していたかったのだ。余計な詮索や奇異の目は勘弁願いたかった。
「すみません」
「いや、だからカイのせいでついた傷じゃないんだから」
「そうではなく……貴女が見せたくないものを私のせいで……」
「あー……まあ、気にすんな」
カイの言わんとしている事に漸く気付き、
は苦笑する。
そしてふと、そういえばこの傷を他人に見せたのは初めてだと思い当たった。
目の前には至極落ち込んだ様子のカイがいて。
「……じゃああれかな、責任でも取ってもらおうかな」
ぽそり、とそう冗談を交えて零せばカイは面白いほど素直に顔を真っ赤にさせ――――というのが
の描いた筋書きだったのだが。
「取らせてくれるんですか?」
「は……?」
予想外に食いついてきやがった。そしてにこりと極上の笑みを向けてくるものだから。
「え、や、取らんでいい!」
「そうですか……?」
そう言うと何故かカイはしょんぼりと肩尾を落としていた。
――ちくしょう何でこっちが動揺させられてんだ!?
迎撃された気分がする……と呟き、
は額を押さえてがっくりと項垂れる。
そのすぐ隣にいるカイは、先程までとは打って変わって上機嫌な様子だ。
は頭を抱えながら、どうか今は他はばれてもこの赤くなった顔だけはばれないで欲しいと願っていた。