理由、それをどうして教えてくれないのか。
時間は少しだけ巻き戻る。
――カイ=キスクは団長という大任に就いて暫く経つが、それでもまだまだ至らない点は多いという周りから見れば必要ないような自覚をしているせいで、今日も夜遅くまで執務に励んでいた。
気が付けば時計の針が2本とも右半分に寄っていた。
根を詰め過ぎたか、と息をつき手を止める。
そして書きものをしていた為に凝った感じのする首元を押さえながら、何とはなしに窓の外に目を向けた。
ふと、陰が動いた。
疲れ目のせいではないはずだ。
そっと窓に寄り闇夜の向こう側を慎重に伺った。
――よもやこの聖騎士団に忍び入る者などいないかとは思うが、否定はできない。
カイは封雷剣に手を伸ばそうとして――ぴたりと動きを止めた。
「
……?」
遠目だとしても、自分が彼女を見間違える筈がない。
黒っぽい服装な為判り辛いが、暗闇の中を隠れるように動くミルクティー色の髪が、それが
であると物語っていた。
こんな夜中に一体何を、と怪訝に思い、次の瞬間息を飲んだ。
より数歩先にもうひとつ影があった。それも、カイにとって見間違えようのないものだった。
息苦しいような不快感がカイを襲う。
――何故、ソルと
さんが?
カイがぐるぐると混乱している内に二人は易々と木を登り、ひとつの窓枠に手を掛け――
――がちゃんっ
特に気に入っていたはずのカップが簡単に床に落ち、砕け。
その音は深夜の冷えた空気の中に鋭く響いた。
――何を言っているんだこいつは。
脱走、だって?
これは酔っぱらいの戯言なのか?
「言っておくが真面目な話だ」
決定打。
ソルは本気で聖騎士団から抜け出そうとしている。
「辞表、じゃ駄目なの?」
「ああ」
「なんで」
「あるものを持ち出すつもりだからな」
「盗む――ってことか?何を?」
段々低くなる自分の声と一緒に気分まで落ち込み出す。
ソルは窓を背に、一拍おいてから言葉を吐いた。
「神器だ」
……そうか。
これで合点がいった。
「最初から、それが目的だったんだね」
「ああ」
悪びれもなく言うソルに
は深い溜め息を落とす。
わざわざ馬の合わない聖騎士団にやってきたのは……最初から神器を手に入れる為だったのだ。
だが、どうしてそんな回りくどいことをしてまでそれを欲しがるんだ?
「神器……を、どうするの?それで何をするの?」
強大な力を秘めた武器だと聞いた。
ソルは今でも十分強いだろうに、それを手に入れどうするつもりなのか。
はソルを見上げた。
「……」
「答えられないこと?」
「……今のお前には関係ない」
「はあ!?」
思わず大声になってしまったがそんなことより。
「関係ないだって?」
凄む
を前に、しかしソルは全く動じない。
しばし睨み合いが続いた。
――もうすぐ夜が明ける。
先に折れたのはソルだった。
「言い方が悪かったな。
……わざわざ必要のない危険にまで首を突っ込む必要はねえ、ってことだ。」
「今のこのご時世、ギアと戦う以上に危険なものなんてあるものか」
「あるさ」
「あんたの話は矛盾してる。
ついて来るかと言ったのはそっちだぞ」
「別に命令したわけじゃねえ。お前が決める事だ」
「――ッだったら!理由くらい教えろ!こんな状態ではいついて行くよ、なんて言えるか!」
「……知れば巻き込まれる事は避けられん。
来るならば話す、来ないのなら話す道理はねえ」
「この……っ、――埒が明かないよこれじゃ。
……
にはソルの考えが分からない」
「分かってもらおうなんて思ってねえさ」
今にも噛み付きそうに見上げてくる眼。
ソルはそれを正面から受け止めていた。
脱走というリスクを背負ってまで神器を手に入れようとする理由。
ついて来るかと聞いたくせに関係がないと言ってその理由を話さない。
はもううんざりしていた。
「ひとつだけ教えてくれ」
ソルに背を向け言う。
ひんやりとしたドアノブに手を掛け、視線を足元に落とした。
「……なら、どうして
に話した?」
朝日が昇り始めているのか、カーテンの隙間から差し込む光が影を伸ばしている。
静けさがいやに不快だ。
がぐっと眼を閉じると。
「……さあな」
たった一言だけ。
それだけしか答えは得られなかった。
はそのまま振り返りもせず、扉を開け部屋を後にした。
夜中であるせいか、廊下は耳が痛いほどの静けさと空気の冷たさだった。
溜め息すら、出やしない。
頭の中が混乱しすぎて真っ白だ。
思い詰めた彼女は普段の気配に対する鋭さが欠落していた。
故に気付けなかった――離れた場所から自分を見ている者がいたことに。
その日の訓練は散々であった。
あの後
は自室にのろのろと辿り着き、直ぐ様ベッドに倒れ込むように体を沈めた。
だが、疲れているくせに一向に眠ろうとしない脳味噌にイライラし、結局混乱した思考を抱えたまま明けの明星を拝むはめになった。
そんなこんなで一睡もしていない自分の体のなんとダルいこと……1日2日の徹夜は慣れっこであるというのに何故調子が悪いかなど、理由はひとつ。
昨日の晩のソルの言葉を、混乱を引きずっているからに他ならない。
今日何度目になるのか数える気すら起きない溜め息を吐き出し、
は休憩時間に入ったのを確認して訓練場の喧騒に背を向けた。
向かう場所は――
無意識に踏み出した方向に気付き、顔をくしゃりと歪める。
今は、いつものあのお気に入りの場所には行けない。行きたくない。それなのに勝手に足が向くなんて……
それだけ当たり前だったということか。
手近な柱の陰にずるずると蹲って、顔に手を当てた。
閉じた瞳の奥を一瞬霞めたのは僅かに残る昔の記憶で――理由なんて知らない。気持ちが弱っているせいだろうと投遣りな解釈を決めつけ、膝に顔を埋めた。
今はただ、燦々と輝く太陽が憎らしかった。
訓練を終え、午後はいつもの通り団長室に足を運んだ。
その前に顔を洗って隈を隠すように顔色を整える。
カイは他人の変化に敏感だ。
彼の前で疲れた顔をすれば隠しているつもりでもすぐにばれてしまうだろうが、反対に正直に体調不良とでも言おうものなら必要以上に心配するだろう。
どちらにしろ余計な事態になりかねないから、多少無理してでもいつも通りでいることが一番よい。
言わないことは嘘ではないのだから。
平常心平常心。
大丈夫大丈夫。
「――入るよ」
いつも通りに声を掛け、扉を押す。
「今日はゆっくりですね」
「ランチの後昼寝してたから」
「なら、仕事中の居眠りもしなくて済みそうですね」
「何だよ
が毎回うとうとしているような言い方じゃないか」
「違うんですか?」
「……違うとは言わないけどさ」
ほら、普通。
できるじゃん自分、と感心しつつ定位置に腰を下ろす。
ふと、丁度視界に入るカップボードの中の並びに穴があることに気付いた。
「あれ?あのカップは?」
言いながらカイのデスク上を見遣るがそこにあるのは別のものだ。
確か彼が好んで使っていたカップだと思ったのだが。
「昨夜うっかり割ってしまったんです」
不意に紡がれた昨夜という単語に
は内心どきりとした。
瞬間蘇るのは、あの言葉。
思い出しかけたそれを噛み殺すようにぎちりと奥歯を鳴らした。
「――カイでもうっかりってあるんだね。意外意外」
「まあ、うっかりだらけの貴女から見れば意外でしょうけれど」
「……なぁ、さっきからやけに返しが厳しくないか?」
「いつも通りだと思いますが」
「さいですか……」
むぅ、とややむくれながら、
は今日の割り当てられた『仕事』を手に取った。
時計の針も時間を示していることだし、とそこで会話は途切れた。
は巧く隠し通せたと安堵した様子でいたが、そんな彼女を観察するようにカイは視界の隅から彼女の姿を離さずにいた。
彼女がこの部屋に来た瞬間から気取られないように視線、表情、言動に注意していたが……結果は昨日のことを裏付けるようなものだった。
僅かな変化だったが、見落としたりはしなかった。相手がカイ以外ならすんなり騙せたかもしれない。
だが、彼には分かってしまった。
一瞬揺らいだ瞳、そして彼女が後ろめたい時等によくその言葉の上に表れるのが――カイでもうっかりってあるんだね。意外意外』――という言葉を二度重ねる癖。
誤魔化そうとしているのか自分に言い聞かせているのか、度々(悪戯がばれたとき等に)耳にしてきて分かったことでありこっそり苦笑していたのだが……まさかこんな精神状態で聞くことになろうとは、思わなかった。
自分の発した昨夜という単語に反応した
。
カイの見間違いであったかもしれないという淡い期待は皮肉にも彼女自身に打ち崩されてしまった。