Fortune 19


 怖い以上に、でも、心強いのだと気付いた。



 ぼんやりと微睡んでいた。
 自分が眠っているのが分かる奇妙な感覚。
 どうやら脳味噌は半分しか起きていないようで、体の神経が応えることはなくただ感覚だけがある。
 でも当然ながら眠っているので視覚は働かず、暖かいような柔らかいようなものだけが感じられた。
 誰かの手が額に触れる。
 その温もりが余りに優しくて、ああ夢かもしれないなと思い至った。
 昔、今はもう覚えていない幼い頃、もこうやって父さんや母さんに頭を撫でられたりしたのだろうか。
 強ばっていた気持ちまで解されるような温かさの中、自分の口が何事か呟いた。
 だが何と言ったのか、言った傍から忘れてしまった。
 そうやっていろいろ考えているうちにとろんとした眠気が広がってきた。
 眠っているのにまた眠くなるとはおかしなものだ。
 そう思いながらは意識を閉じた。



 本当に目が覚めたときには本部の自室にいた。
 えーと今日の訓練は午前だっけ午後だっけ、と焦点が合わぬまま天井を見上げる。
 だが作戦に出ていたはずだと思い出し跳ね起きた。
 毛布をひっぺがし体を起こして床に片足をついたとき。
 がつん、と後ろから殴られたかのような頭痛がを襲った。
 え、と思う内に膝から力が抜け床に崩れるように倒れてしまった。
 とっさのことで受け身も何もあったもんじゃない。
 オマケに倒れ込んだ拍子にサイドボードの水差しも盛大にぶち撒けてしまったらしく、視界の端に残骸と水浸しの床が映った。
「……った~……」
 打ち身の衝撃より無様に倒れた自分への情けなさに声が出た。
 水がこちらに流れてきて腕のあたりを濡らす。
 床も拭いて破片を片付けないといけないな。
 痺れるような感覚が脚や腕にあったが、いつまでも床と仲良くしているつもりもないのでぐっと腕を突っ張って上体を起こす。
 そこにばたばたと近付いてくる足音が聞こえてきた。
 が顔を上げると蹴破らんかの勢いで扉が開いた。
「大丈夫ですかさん!?」
 物音に気が付いて飛んできた様子のカイは、床に四つん這いになっているに驚いたように声を上げた。
 うあ、大声が頭に響くよ。
「まだ寝てないと駄目です!」
 助け起こしてくれるのはありがたいんだが、耳元で騒ぐのはやめてくれ。頼むから。
 をベッドに戻し毛布を掛けて、やっとカイは満足したように一息ついた。
「……まったく無茶しすぎです」
「まあ、無理無茶無謀は得意分野ですから」
 呆れるカイにはややぎこちなく笑った。
 そうだ、カイを見て思い出した。
 作戦の途中でぷっつりと記憶が途切れてしまったことを。
、どんだけ寝てた?」
「丸一日とちょっとですね」
 存外早く復活できたようである。
 こういうパターンだと三日四日は昏睡状態が続くのがセオリーだろうが、ふむ、はどうやらやっぱり頑丈にできているようだ。
「でも目を覚ましてくれてよかった」
 心底ほっとしたように言うものだから、は妙に居た堪れない様な気持ちになった。
 それでなくても作戦中はいろいろ取り乱してしまったのだ。
 こりゃ大分借りを作ってしまったなとは嘆息した。
「何か欲しいものはあります?」
 そう聞かれた途端、急に空腹を感じ始めた。
 丸一日以上何も口にしていなければ当たり前か。
「とりあえず何か食べたい」
 素直にそう答えればカイが僅かに笑った。
 何だよ笑うなって。
「分かりました。ちょっと待っていてくださいね」
 食堂に行ってくると言ってカイは部屋から出ていった。
 それを見送ってからはむくりと上半身を起こした。
 うん、もう頭痛は治まったようだ。
 さっきの激しい痛みはいきなり動いたせいだったのだろう。
 はそろりとベッドから立ち上がりうーっと体を伸ばした。
 だるさは残っているが、特に体調は問題ないようだ。
 長い時間寝ていたせいで固まった体を解しながら、シャワーでも浴びようと思い立った。
 カイが戻ってくるまでには終わるだろうと時計を見ながら確認し、タオルを引っ張り出す。
 自室に浴室が完備されているとは何ともいい待遇だと思えたが、話を聞いたところ他の部屋は違うらしい。
 皆一応の個室は与えられてはいるが、小隊の隊長クラス以上でないとバス付きではないという。
 自分は女性だからと気を遣ってもらったようで悪い気もしたのだが、まさか共同浴場を使うわけにもいかないので有り難くこの部屋を受け取ったのだ。
 タイル張りの床に足をつき、コックを捻って少し熱めのお湯を頭から被る。
 じっとりと熱が頭皮に染み込む感覚に脳が冴えてくる。
 お湯が入らないように俯き加減に目を開くと壁についた自分の腕が目に入った。
 左腕の傷痕は蔦が巻き付いたような奇妙な形で残っている。
 怪我自体の記憶はないから、おそらく記憶喪失の前に負ったものなのだろう。
 古傷特有の不自由さや痛みがないのがせめてもの救いだが、いつまで経っても消えてくれないこの傷を見ているとどこか心が落ち着かなくなるから、なるべく目に付かないように普段グローブをしているのだ。
 体が温まり始めたのを感じ、そこから顔を逸らしてさっさと髪を洗い出す。
 長湯をしている時間はないので簡単に済まし、服だけ着こみ髪も乾かさずに部屋に戻った。
 急いだつもりだったがそこにはもうカイがいて、少々吃驚する。
「早かったね」
 あれから15分も経っていない。
 テーブルの上に置かれた湯気を立たせるリゾットに目を移し、美味しそうと思う前にこれだけで足りるか心配になった。
 うん、平常運転だ。
「ごめんねいなくて」
 もしかして自分の姿が見えず捜したかもしれないと思い言ったのだが、カイは「音がしましたから」と返してきたので大丈夫だったようだと安心した。
 が、何故かその視線は泳いでいた。
 というか故意に目を逸らしているような……?
 だが特に気にすることではないかと思ったので敢えて言及しなかった。
 ベッドに腰掛けると、カイも遠慮がちに椅子に座った。
 トレイの端のティーポットとカップを手にし、お茶の準備をしてくれるようだ。
 タオルに髪の水分を粗方吸い取らせてから無造作に一つに括り、食卓につく。
「ちゃんと乾かさないと風邪引きますよ」
 ただでさえ倒れたばかりなんだから、とカイに諭されるが、ほぼ無視する形でスプーンを手に取った。
「食べる方が大事」
 いただきますと手を合わせひょいぱくと口に運ぶ。
 カイは自分の心配がさらりと躱されてしまったことを少しだけ寂しく感じた。
 だが、いつもと同じように(若干勢いよく)食べ始めたの様子を確認し、本当に体調が回復したのだと安堵の息を漏らしていた。
「そういえばが寝てる間誰かそばにいた?」
 は手を止めずに喋りだした。
 咀嚼する口も動いたままなのに何故話せるのかカイは理解不能だったが、問いに答えることを優先した。
「いえ、私は何度か様子を見に来ましたが他は誰も」
「ふーん?」
 は口の中のものを飲み込んでティーカップに手を伸ばした。
 飲みやすいように少し温めにしてくれたらしい。ありがたや。
「どうかしましたか?」
 カイがそう聞いてきてもには答えようがない。
 誰かいたような気もするが、なにしろ自分はずっと眠りこけていたのだ。
 勘違いか夢だろう。
 そこではふと溜め息をついた。
 次いで、どんよりとした空気を背負い始める。
さん?」
 突然落ち込みだした目の前の彼女にカイは心配げな表情を向ける。
 しかしそこからふふふと暗い笑いが漏れてきて、彼の表情は訝るものに変わった。
「……フォルトゥナ云々が夢オチってことは……」
「ありませんね」
 僅かな望みをかけた問いだったが、カイによってきっぱりあっさりと砕かれた。
「勘弁してくれよ……」
 わざわざ皿を端に寄せて突っ伏す
 カイは諦めろと言わんばかりに涼しい笑顔を向ける。
「まあいいじゃないですか」
 この野郎人事だと思いやがって。
 いや、こいつも至るところで天使様だ人類最後の希望だとキラキラした呼称をされていたな。
 あれか、道連れにできる同じような境遇の奴を見つけたのが嬉しいのか。
 お前はいいよ、顔と呼び名が合ってるからさ。むしろお前以外似合わないよ。
 それに引き換えこちとら平凡中の平凡なんだよ。こっちの身にもなれってんだ。
 にじとりと睨まれてもカイは素知らぬ顔だ。
 綺麗な顔して随分図太いことだ。
「……皆、軽い気持ちでそんなことを言ったわけじゃないんです。
 貴女の中に希望を見出し、信じることで、彼らも迷いを消すことができる。
 必要なんです。戦い続ける為には……」
「それは……」
 それは確かにそうなのだろう。
 揺らぐことなく強さだけを持ち続けられる人間なんてそんなにいない。
 恐怖や絶望に立ち向かう為に信仰というものは大層役に立つことは知っている。
 カイが異例の若さで大隊を指揮する立場になったのも、彼自身の強さや求心力の他に、周りが彼に向ける崇拝のような少々いき過ぎなくらいの忠誠心が存在したことも理由に挙げられるのだろう。
 人間の防衛本能で足が竦みそうになっても、カイの命令が響けば彼らは打ち震えるように剣を掲げる。
 彼の言葉を神託かのように受け入れる光景は、空恐ろしくも感じる。
 人の命を使う立場。
 その重さを分かった上で、カイは隊長として戦場に立っているのだ。
 責任を果たそうとするカイと、まるで何も分かっていなかった自分。
 その違いに気付き、恥ずかしい気持ちになった。
 尚更、そんな名前で呼ばれる資格などには無いと思ってしまう。
「……もちろん、貴女が望まないのならば私から皆に言っておきますが」
「あー……」
 本音を言うと全力で断りたいのだが……何だか言いにくい雰囲気になってしまった。
 ……がたり
「ちょっと……」
 カイが立ち上がり扉の方に向かう。
 突然どうしたんだと思ったが、そこでやっと扉の外にいくつも気配があることに気付いた。
 カイがばっと扉を開けると気まずい様子の団員達がこちらを伺っていた。
 が首を伸ばしてよく見ると、同じ隊の面子だった。
 カイは何も言わずじっと彼らを見ている。
 彼らがここにいる理由が見当つくだけに頭ごなしには怒れないのだ。
「どうした?何か用?」
 カイがどうしようか迷っている内に、が彼らへ声を掛けた。
 団員達は何やらどぎまぎした様子で狼狽えている。
「あ、いや、隊長が食堂からトレー持って出て行くのが見えて……」
「それで目を覚ましたのかと思って……」
「……で、あなた方は私の後をつけてきたわけですか」
 咎めるというより呆れに近いカイの物言いに、団員達はぎくしゃくと苦笑いを返し、それにカイは更に呆れの色を深くした。
「騒がしくすると彼女の加減に触ると思って伏せておいたんですがね」
 の位置からはカイの背中しか見えないのだが、うん、今怖い顔をしているのは分かるよ。
 外の彼らが怯えているからね。
 は溜息をついて口を開いた。
「あのー」
 彼らとカイがこちらに注目する。
 は一瞬言葉に詰まるが、もうひとつ息をついてから言う。
「あのさ、ならもうほとんど元気だし迷惑でもないから大丈夫……なんで、まぁそのへんで……」
 どっちかというと騒がしくされるよりそばで(例え他人へ向けたものでも)お説教を聞かされる方がしんどかったりする。
 困った顔で笑うにカイもその辺りのことに気付いたのか、それ以上彼らの行動について言及するつもりはないようだ。
「えーと、何か色々スイマセンでした」
 ぺこりと頭を下げたのはだった。
 これにはカイばかりか団員たちも吃驚する。
 だが、は目が覚めてからずっと考えていたのだ。
 結局、誰が一番周りに迷惑をかけていたのかと。
 それは間違いなく自分だろうと結論していた。
 カイに対しての失態は一応謝れていたので、あとは作戦の途中――倒れた時点では終わっていたか?それはどっちでもいいとして、勝手にオーバーロードでぶっ倒れてしまった件への謝罪が必要だと思ったのだ。
 は俯いて頭を掻く。まだ湿ったままの髪が指に巻き付いた。
「……謝らなければならないのはこっちだ」
 は?とは顔を上げる。
 彼らは神妙な面持ちで自分を見ている。
 何で?とクエスチョンマークが頭上に浮かんだ気がした。
「我々の勝手な期待が、君を追い詰めていたかもしれないと気が付いたんだ」
 この人は突然何を?
 話が見えず、どんな顔をすればいいのか分からないままは瞬きを繰り返した。
「俺たちが弱いせいで君には必要以上の負担を強いてしまっていた。すまない」
「君が一人で頑張らなければならないような状況を作ったのは我等だ」
 ……え?
 ちょっと待って、だからが勝手に一人で馬鹿みたいに突っ走っていただけなんだってば。
 仲間に頼ることを知らず、全てを一人でやろうとして。
 でもそんなことを続けていられるわけもなく、無力さと自分の馬鹿さ加減を突きつけられて。
 あんた達のせいじゃない。
 弱くって臆病でどうしようもなかったのは、この……
……」
 なんて奴だ。
 これだけ心配してくれる仲間がいるのに、それに気付けず、果ては彼らに呵責の念を抱かせてしまった。
 恥ずかしくて情けなくて、こんなに自己嫌悪したのは初めてだ。
「ごめんなさい……」
 は表情が伺えないほど俯き、小さな声で呟いた。
 泣いてしまった、そう思った。
 肩越しに狼狽する団員の気配が伝わってくる。
 カイ自身も何故、どうしようと焦る気持ちが生まれていた。
 そんな収拾がつかなくなると思われた次の瞬間。
馬っ鹿だな~」
 いつものお茶らけたの声が聞こえ、一同は目を瞬いた。
 注目される中、は顔を上げた。
 「本当大馬鹿。うん、どうしようもないや」
 あはは、と声を立てて笑い出しさえする彼女を見て困惑する。
 彼女はどうしてしまったのか。
「――ごめんな。はそんな立派な奴じゃないよ。一人きりじゃできないことばっかりだって思い知った。
 だから、これからは……」
 そこで一呼吸分間が空いた。
「皆を頼らせて欲しい。いい、かな……?」
 慣れない言葉に自信が持てず、言葉が尻すぼみになってしまう。
 本当に情けない。
 そんな常らしからぬ緊張した様子のを目にし、彼らはぽかんとした後、お互いの顔を見合わせた。
 そしてすぐに全員が破顔した。
 ……そうか。最初からこうして良かったんだ。
 彼らの笑顔を見て、は何かがすとんと落ち着いた気持ちになった。
 頼ってもらえて嬉しい、というのはも感じることがある。
 彼らだってそうだったのだ。
 そのことに気付き、自分の中のもやが少し晴れたことでは誰に向けるでもなく笑顔になる。
 いつもの悪戯っぽさはそこにはなく、頬に朱を乗せた柔らかい笑みだった。
 その表情を見た団員らはどこか浮足立った様子で。
「もちろんだとも。最後は君に頼る場面もあるかもしれないが、我らにできることならば全力で君を助けよう」
「ああ、戦闘でもそれ以外でも、俺たちで力になれることがあればいくらでもな」
「何だよ含みのある言い方だな」
「顔赤いぞお前」
「はっ!こんなもんは言ったもん勝――……」
 突然騒ぎ出し突然固まる彼ら。
 コントの掛け合いのような会話を楽しんでいたの目の前で、彼らは微動だにせず硬直し一瞬で顔色を真っ青にした。
「――さあ、話はまとまったようですし貴方達はもう持ち場に戻ってください」
 カイが丁寧にそう一声掛けると、彼らは敬礼も半ばに逃げ出すように散っていった。
「あ、ちょっと!」
 の制止の声にも気付かないのか気付いていてなお立ち止まれない理由があったのか、彼らの気配はすぐに遠くへ行ってしまった。
 取り残された気分になったはゆっくりとカイへ視線を向けた。
「話まとまってたか……?」
「まとまったということでいいじゃないんですか?」
 何だこの強引さは。
 だけど彼らにはちゃんと謝れたし、ひとまずは上々といったところか?
 は乾き始めた前髪を撫でつけながら、まあいっかと持ち前のおおらかな思考で納得した。
 そして彼らの去っていった方向をどこか難しい顔で見つめているカイヘ声をかける。
「カイー」
「はい?」
「カイのおかげで大事なことに気付けたよ。ありがとう」
「――いえ、気付いたという事はそれはもともとさんの中にあったものです。
 私は切欠にしか過ぎませんよ」
「……何か良いこと言ってる……」
「な、茶化さないでくださいっ」
「照れんな照れんな。褒めてんのだよ」
「そんなあやしい笑顔で言われても褒められた気はしません!」
 失礼な。
 としては爽やかこの上ない笑みのつもりなのだけれどなぁ。
 ……まぁ、とにかく。
「これから、えーと改めて、よろしくです」
 仲間という意味を噛み締めてこれからは頑張ろうと、そういう決意を込めてカイヘ右手を差し出す。
 また間違うことのないように。
 握り返された手が予想より大きくて少し驚いたけれど、ここに来てからずっと自分を助けてくれていた彼をこれからはも助けられるようになりたいと、そう思った。