輪廻の果て 03



 ストレス解消には運動と美味しいものです。



 アレンはトラウマになると有名なコムイの治療を受けた後、彼に引き摺られるようにして元老たちのところに向かっていった。
 そしてリナリーはそのまま科学班に残り、やることのなくなったは宿舎の方へ戻ることにした。
 その道すがら、アレンはヘブラスカと対面してどんな反応をするのだろうか、驚くだろうなぁ、などと前情報を一切くれないであろう悪戯好きな某上司への呆れとともにとりとめもなく考えていると。

「おいそこのにやついた阿呆」

 横手の通路の壁に背を預け不機嫌そうに腕を組んでいる神田が、今ちょうど目の前を通り過ぎようとしていたを呼び止めた。

「阿呆とはなんだ失礼だな」

 むすっとした顔では神田を見やった。
 急な呼び掛けにも動揺していない様子から神田の存在には気付いていたことが伺われ、それを察したらしい神田の眉間のしわがやや深くなる。

「はっお前なんざ阿呆で十分だ」
「開口一番何で君はそういう……」

 は怒るでもなく、力が抜けたように呟いた。
 先程のアレンとのこともあるのだろう、機嫌が急斜面になってしまっているようだ。
 しかしそれでもこうやって声を掛けてくるのだから本気の不機嫌ではないのだろう、おそらく。
 精々、新人が気に入らず苛々している程度かな、などと刺々しい雰囲気と表情の神田を正面にそう思案できるくらいには、と神田の付き合いは長い。

「訓練付き合え」
「うあ唐突。しかも命令形」

「行くぞ」
に拒否権はないのかな?」

 さっさと歩き出してしまった神田の後を追うようにも足を踏み出す。
 自分も今日はまだまともに活動していないのだから、訓練として体を動かすこと自体はやぶさかではない。そのついでとして彼のストレス発散に付き合ってあげるのもアリか、と重くない溜め息を零してから彼の隣に並んだ。

「神田、休まなくて平気なのか?」

 聞いた話では、つい先程帰ってきたばかりだという。それも負傷した状態で。

「問題ない」

 あっさりと答えられは肩を竦める。
 一刀両断な返答が彼のスタンダードだと知っているのでそれ以上の口出しはしなかった。ここで食い下がろうものなら更に機嫌が悪くなること請け合いだからだ。
 この件については、あれだけアレン相手に元気に動き回っていたのだから言葉通り大丈夫なのだろう、と納得しておくのが賢明だ。

「いつもの場所?」
「ああ」

 二人の足は館内の修練場ではなく屋外に向いていた。
 程なくして通路から逸れると神田は平然と塀を飛び越え、も当たり前のように同じ行動をとる。
 そして更に進んだその先、木々が生い茂る中にぽっかりと開けた場所が現れ、二人はそこで足を止めた。

「さて、今日は何を賭けようか」

 にっとが笑って言う。
 神田の返答を待ちながらぐいっと肩や腕を伸ばし準備を始める。

「……」

 何も答えない神田だったが、一呼吸の後、背中の六幻を流麗な動作で抜いた。
 突如生まれる闘気と緊張感。

 ざんっ!

 言葉も音もなく神田がに斬りかかる。
 その手に握るものは真剣だというのに躊躇も遠慮もない動作だった。
 はその斬撃を身体を回転させ受け流す。武器を出す様子はなく丸腰のままで、端から見たら分が悪いにも程がある。
 しかし。
 は口端を持ち上げ笑う。
 『手加減無用待ったなし』
 それが彼らの間での暗黙のルールだった。

「……が勝ったらその綺麗な髪を三つ編みにしてあげよう!」

 ぶんっ!
 言いながら横凪に払われたの手刀は後少しのところで神田には届かなかった。
 最小限の動きで間合いを取ったは、すぐさま重心を整え掌底を突き出す。
 耳を掠めそうな距離でそれを避けた神田は小さく舌打ちをしながら刀の柄での伸びきった肘を狙う――が、捉えたと思った次の瞬間には逆に自身の手首が極めにかかられたのを察し、寸でのところで身を引いた。
 自身の動きが読まれたことを悔しがるどころか嬉しそうに笑うに、神田はもう一つ舌打ちをした。
 二歩踏み込めば切っ先が届く距離をとり、そこで六幻の力を引き出す。
 の笑みが深くなったのを見とめ、神田は地を蹴った。
 数度打ち込み、しかしはそれをいなし捌くのみで仕掛けてくる様子はない。
 の戦い方は基本的に待ちの姿勢だと分かってはいるものの、段々と苛々が募ってゆく。
 相手の攻撃に対するカウンターこそが、の本領を発揮できる場面だ。
 だからこそ、神田は攻めの手を緩めることなく、隙を与えず、手数と攻撃力で押し切る戦法を取る。
 幾度目かの攻防の後、の呼吸がやや乱れた。
 好機か、と神田の刀が一点を目掛け風を切る。
 しかしその一撃は躱される――が、本命は次だ。
 初撃を不安定な姿勢で避けたことで反応が間に合わないに向け、追撃をかける。
 ふ、と口元が笑ったように見えた。

「――虚蝶」

 上体を傾けた姿勢のまま、しかしその目は神田を捉えていた。
 小さく静かなの声が神田の耳に届くと同時。
 神田は六幻を振り抜いた。

 ――カッ!

 強い光から一瞬遅れで高い音が起こった。
 そして数瞬遅れで轟く爆音。
 風が竜巻に変わり周囲の大木を軋ませる。
 やがてその風が収まると、その場には動きを止めた二人の姿があった。

「参りました」

 両手を顔の高さに上げることで白旗を示したのはであった。
 埃の舞う少しばかりすっきりした林の中、彼女はその姿勢のままけほけほとむせ込んでいた。

「……あっさりと引きやがる」

 の首筋に当てていた刀を離し、神田は溜め息を零した。
 先程放たれたのイノセンスの残滓が空気中に溶けて消えてゆくのを目で追い、刀を鞘に戻す。

「今回も負けてしまったな。三つ編みはまた次の機会の楽しみに取っておくよ」
「そんなもん取っておくんじゃねぇ」

 あっけらかんと告げられた内容に神田は苦虫を噛み潰したような顔を向けるが、はにこにこと笑うばかりだ。
 まったく何が面白いのか、と毒気を抜かれた気分になる。
 自分が勝ったことにされたと気が付かないとでも思っているのか、気が付くことを見越した上で笑顔を浮かべているのかよく分からない目の前の人物に、神田は不意に色々なものがどうでもよいような気分になる。

「もう日が暮れるな。夕飯一緒にどうよ?」

 上を見上げると、先程まで青かった空は朱色に染まり上がり、遠くに見える山の端から暗くなり始めているのが分かる。
 はぱっぱと服の埃を払いながら来た道を戻るべく移動を始めていた。
 先程までと打って変わったようなその行動の素早さに、神田は呆れの色を滲ませる。

「何で嫌そうな顔しているのかな神田君?」

 にっこりとそう言うに、神田はじとっとした目を向ける。

「てめぇと食うと胸焼けする」
「失敬な」

「あの量はありえねぇ」
からすれば君の蕎麦一品っていう方が信じられない。栄養は足りているのか?」

 君はまだ育ち盛りだろう、と至極お節介なことを言われイラッとするも、一呼吸、神田はにやりと口端を上げる。

「食っても食っても成長しねぇお前と違ってな」
「……言うようになったじゃないか」

「俺のがとっくにデカい」
だって平均値くらいはある」

 ムキになったように言い返してくるが面白く感じ、神田は先程までの苛々を返すように更に言葉を重ねる。

「俺はまだ伸びてる」
だってな」

「先月からプラス1㎝」
「え!?」

「その前も同じくらい伸びてる」
「何だと……」

 不意打ちの衝撃だったのか、よろりと歩調が乱れている。
 そんなの様子に気を良くしたように、神田はすたすたと先へ進んでゆく。
 しばし呆然としていたは、神田の背が小さくなっていくのに気が付いたのかはっとした様子を見せてから小走りで追いかけた。

「あんなに可愛かった神田がいつの間にかこんなに大きく……」
「年寄りか」

「そうか~蕎麦だけでも背は伸びるんだな」

 感心するところはそこか。
 神田は盛大な溜め息を落としてから、ふと視界の端に映った朱色の方に視線を向けた。

「おや、真っ赤な夕日だね」

 綺麗なもんだ、とそれこそ年寄り臭い様子でうんうんと感心しているを見ると、青みがかった髪の色が朱く照り返されている。
 にこにこと笑みを乗せる頬もその色に染まっており、その色合いのせいかいつもより随分と幼く見えた。その顔がこちらを向く。

「うん、夕方だと自覚すると余計にお腹が空くね。早く戻ろう」
「ガキか」

「君はのことを年寄りだと言ったり子どもだと言ったり忙しいな」
「お前自体の様子が忙しいんだよ」

 本人曰く自分より年上らしい人物に向け幼いとは妙なことをと思ったが、そんなことはなった。
 事実だったな、と自身の胸の内に生まれた違和感の正体を無視するように神田は溜め息混じりにから視線を逸らす。
行きに飛び越えた塀をまた乗り越え、敷地内に戻ってくると。

「――そういえばジェリーさんが今日はいい野菜がたくさん仕入れられたから天ぷらのメニュー増やすって言ってたな」
「……ほう」

「神田の好きなあれもあったよ、ちょっと辛い緑の」
「別にそういうわけじゃねぇ」

「え?違うの?」

 きょとん、と目を丸くしてこちらを振り返ってくるに、神田はバツが悪そうに顔を歪める。
 そして数秒後、ぼそりと低い声で、

「……嫌いじゃねぇってだけだ」

 大層言い辛そうに零されたその一言をは正しく翻訳し、破顔する。
 その委細承知と言わんばかりの表情を見た神田の眉間にしわが刻まれる。
 だがその様子を見ても笑顔を崩さないに呆れたのか、それともまた別の何かを思ったのか、次の瞬間、ほんの僅かな間だけ、ふっと口元を緩ませた。



「……ね?笑うでしょ?」
「うわ、本当だ……」

 二人のたった今のやりとりを階上からこっそり見下ろしていたのは。

「ねぇリナリー。さんって僕らより年上ですよね?」
「ええ。私たちや神田よりも上よ。教団にいる期間も長いわ」

 白髪の少年アレンと、黒髪を揺らす少女リナリーだった。
 どこからか戻ってきたという様子で建物に向かい歩いている二人を眺めながら、アレンは首をかしげる。

「でもあんまり年上な気がしない、かも」
「ふふ、と初対面の人はよくそう言うのよ」

「ふーん……?」

 つい先程会話した時には結局性別について言及できず、リナリーに聞こうとしても何故かはぐらかされるのでまだという人物については謎のままだった。
 そしてその隣にいる神田に視線を移し、先程敵意を向けられたことを忘れてはいないものの、そんなに悪い人ではないのかもしれないとも思った――が、その考えは一瞬で崩されることとなる。
 一瞬流れたほのぼのとした空気を切り裂くかのように、こちらに射殺さんばかりの厳しい眼光が向けられた。
 まさか気が付いたのか、と冷や汗を感じながら肩を跳ねさせると、気が済んだのかふいと視線が外された。
 それは器用にもアレンにだけ投げつけられたらしく、隣にいるリナリーは微笑を浮かべたままだ。
 やっぱり怖い人だ、と認識を改めたところで、ふとと目が合った。
 神田から見えない位置で、ごめんねと言わんばかりに小さく片手を上げ苦笑される。

「――ああいうところ、やっぱりお姉さんなのよね」

 ふふ、とどこか嬉しそうに呟かれた言葉に、なるほどと納得しつつ、リナリーが一部始終に気が付いていたことを察し、そしてもう一度言葉の意味をきちんと理解したところで。

「お姉さん、ですか。納得です」
「たまにお兄さんっぽいけどね」

 くすくすと笑いながら言われる。
 自分がガンを飛ばした後のフォローをされているなど思いもしないだろう神田と、その隣を歩くの姿が建物の陰に消えてゆくのを見届けてから、アレンも顔を上げ、リナリーに向け笑顔を浮かべた。