帰ってきた途端、コレだもんな。
がちゃり。
静かな研究班室に音が響いた。
「たっだいま~」
疲れたような間の抜けたような中性的な声が扉の隙間から差し入れられる。
次いでそこから現れた姿を室内の研究員数人が目に留め、おかえり、お疲れさん、等と口々に声を掛けていた。
それに対し口元に笑みを浮かべつつひらひらと手を振り返事とし、現れた人物は肩口までの長さの暗い色の髪を僅かに揺らしながら部屋の奥へと進んだ。
「おかえり
クン」
近付いてきた気配に反応するように椅子から腰を上げたのは、白い服と帽子を纏った背の高い男性。
他の研究員とは異なる服装であることから、彼らを束ねる上長であろうことが伺える。
しかしそんな立場であろう彼に対し、声掛けされた人物――
は緊張した様子も畏まった雰囲気も出さず、自然な動作で手に持つものを差し出した。
「はいイノセンス。ヘブさんに届けておいてね」
髪色と同じく全体的に黒い服を身に纏う
は、緩慢な動作で男性の掌に小さな箱を乗せた。
「うん、よくやってくれたね。グッジョブ☆」
席を立つ直前の仕事中であったであろう真剣な表情はなりを潜め、まったく威厳が感じられないコミカルな表情で勢いよく親指を立ててくる。
は毎度のその変化を見ながら、どこか残念な人なんだよなーと自らの上司ともいえるその人に向け微笑んでおいた。
「……んじゃ休ませてもらいますね」
くるりと背を向けひらひらと片手を振る。
仮にも上司に対してとってよい態度ではないのかもしれないが、お互い長い付き合いなのでそのあたりのことはどちらも既に気にしていないし、周りも慣れた様子で流していた。
「また任務が入ったら呼ぶからね~」
その背に空気を読んでいないと言ってもいいほどの明るい声が降りかかる。
のん気な様子は邪気が無いようでいて、しかし見えない何かが伝わってしまうことはあるものだ。
ぴくりと動きを止めた
は顔だけで振り返った。
「はは、本っっ当人使い荒いねコムイさん」
振り向いた顔は微笑のはずなのに怖いと感じるのはどうしてだろう。
その場にいながら視線を向けることが出来ない研究員達が感じたことであった。
かつかつかつ。
もう時間は夕刻だった。小さな窓から覗く西日が石造りの壁をところどころ朱色に染めている。
時々その朱色が歩く
の青味がかった黒い髪と混じり気のない漆黒の服に色を差した。
「
」
高い女性の声に黒髪が膝丈のコートと共に翻る。
「ただいま戻ったよ」
振り向きついでに敬礼の真似をすると、女性……少女と言った方がいいだろうか、彼女は口元に手をやりくすくすと笑った。
「今回は早かったわね」
とは色味の異なる艶のある黒髪がこてりと首を傾げたことでさらりと揺れる。
相変わらず可愛らしいなぁ、と自分より少しばかり年下の彼女につられ、
も自然と笑顔になる。
「ああ、ファインダー達が頑張ってくれたから」
「久々の単独任務は厳しかったんじゃない?」
リナリーの心配げな声に、
はわざとらしく拗ねて見せた。
「……どうせ
は攻撃力に乏しいですよ」
ふん、と顔を逸らしてもその表情は笑っていて。
「「ぷ」」
薄暗くなってきた廊下に和やかな笑い声が響いた。
リナリーが気遣った理由は、
の拗ねた言葉通りの意味であった。
はエクソシストである。
それ故、もちろんイノセンスに適応したわけだが、
のイノセンスは補助型であり、性能的に本来単独での戦闘行為には向いていない。リナリーもエクソシストの一員だからこそ、
の特性を知っていた。
「あはは……なあリナリー」
ひとしきり笑った後、
はリナリーに向き直った。
数秒、何か思案した様子の後、しかし小さく首を振る。
「いや、何でもないよ」
「……何よそれ?」
呆れた顔のリナリーに
は穏やかな笑みを返すだけだった。
何かを言いかけてやめるのは
の悪い癖だということも、それを聞き出そうとしてもはぐらかされてしまうこともリナリーは承知していた為、苦笑するしかない。
「ごめんごめん。あーっと、今日はもう寝ることにするよ」
「そうね休んだ方がいいわ。疲れているところ引き留めてごめんね」
「大丈夫。じゃ、また明日」
「ええ。おやすみなさい」
挨拶を交わし、
は彼女の横を通り抜け自室に向かった。
……はあ。
知らず溜め息がでた。
自分は還ってきたのだ。
「まだ、生きてる」
誰もいないひっそりとした廊下で、先ほど言えなかった言葉をぽつりと呟いた。
どっと疲労が押し寄せてくる感覚。
本当に今日は早く寝よう、と重たい体を引き摺るように歩を進める。
シャワーを浴びて……食事はいいか。食欲ないし。
まずはバスルームだ。間違ってベッドに突っ伏そうものならそのまま爆睡してしまいそうだ。
そんな計画を立てながらぼうっとした足取りでなんとか自室の扉の前まで行き着いた。
鍵は……と?
はて。鍵は胸ポケットに入れておいたはずだが。
ごそごそ。
ばさばさ。
他のポケットを漁るも見つからず。
「まさかまた失くした……?」
あー……と声を漏らしながら、
は頭を抱えてその場にうずくまった。
実は鍵を紛失したのは一度や二度じゃない。
というか鍵ばかりでなく財布に書類、果てはエクソシストの証であるバラ十字すらをもどこかで落としてくる。
『
ったら忘れ物番長ね』にこやかな笑みつきでリナリーにいらない称号を貰ったのはだいぶ昔の話だ。
癖というよりほぼ習慣じみてきている。治そうにも治せない。
「ああ~布団まであと10歩もないのに……」
よよよと一人芝居の如く項垂れる。
……はあ。
溜め息一つ立ち上がる。
「まぁたコムイさんのとこ行かなきゃ」
余計な仕事まで頂いてきてしまいそうなのが果てしなくイヤだなぁ、と
が思っていると。
「……何百面相してやがんだてめぇは」
背後から聞こえた声にぴくりと肩が動く。
「その辛口嫌味ボイスは神田!」
ばっと勢いよく振り向くと。
「斬られたいか?」
鼻先数ミリで煌めく彼のイノセンス、六幻の切っ先。
「いや~相変わらずお早い抜刀で」
冷や汗一筋、
はひきつり笑いを浮かべる。
「……で、下ろしてくれないかなコレ?」
ちょんと刀身に指先で触れる。
「何してんだ自分の部屋の前で」
神田と呼ばれた青年は六幻を黒色に戻しながら(ご丁寧にイノセンス発動済みだった)そう疑問を口にした。
「いや~神田君、相変わらずキューティクルが美しいね」
ちゃき
「やっぱり斬っておくか」
「ちょ……なし!それなし!」
は慌てて神田の髪に触れようとしていた指を引っ込める。
わたわたと両手を胸の前で振り刃から遠ざかろうと試みる。
ぎんっ
音がしそうなほど睨みつけられ、
はそのまま降参のポーズを取る。
「……あ、あは鍵なくしちゃいました……」
神田にというよりむしろまたも眼前に迫っている切っ先に向けて、声を絞り出すように言った。
あは、と愛想笑いする
に彼はあからさまに馬鹿にした目を向けた。
「阿呆だな」
「く……っ!言い返せない……!」
けっと神田が嘲るも、
は悔しげに言葉を飲み込む他ない。
彼の後頭部の高い位置で一つに結び垂らしている漆黒の長い髪を恨めしそうに見つめながら、
は彼が髪の手入れなどまったくしていないという事実を思い出し何故か余計に落ち込んだ。
「帰ってきて早々ご苦労なこった」
「って待ておいぃっ!」
びんっ
「!?」
ばっ
「何掴んでやがる!?」
「神田の尻尾」
あっけらかんとした台詞に神田は目をつり上げ、乱暴に
の手を払う。
「ってそうじゃなくてだな!」
手を払われたことは気にした様子もなく、
はびしっと神田を指さした。
「何さっさと帰ろうとしてんだよ!?」
そう。彼は
を放置して自室に戻ろうとしたのだ。
「困ってんじゃん!『とりあえず僕の部屋に入りなよ』くらい言えんのか君は!?」
勢いのある叫びに神田はとても嫌そうな顔をした。
「気色悪い……」
「……ああそうだったなそうだよ神田君がそんなこと言うはずないよ……」
どちらともなく溜め息を吐いた。
くるり。
やおら
が神田に向き直る。
ぱんっ
そして両手を合わせ素早く頭を下げた。
「頼むシャワーだけでも貸して!」
「嫌だ」
「じゃなきゃコムイさんとこまで付いてきて!」
「何で二択なんだ」
「お願い!」
「……コムイの妹辺りにでも借りればいいだろうが」
「リナリー今科学班にいるんだよ……」
結局コムイに顔を合わす羽目になる。
それは避けたい
はさらに頭を下げる。
……
少しの沈黙の後神田はくるりと背を向けて歩きだした。
それにはその体制のまま肩を落とした。
嫌でしかたがないがまた来た道を戻ろうとしたところで、神田が足を止めて肩越しにこちらを見ているのに気付いた。
「……どこ行こうとしてんだ」
呆れた声に
はきょとんとした表情を浮かべる。
「……ついてくんのかこねぇのかはっきりしろ」
ぷいっと再び背を向け歩きだした神田を数秒呆けたように見てから、
は顔のにやけを抑えようともせずに追いかけた。
「恩に着ます~」
「……ふん」
素っ気ない返事も早くなった足取りも照れているからなのだと、付き合いの長い
はしっかりと見抜いていた。
可愛い奴め。
にししと思わず笑ってしまい、凄まじい怒気をまとって睨まれる。
「……斬る」
「なんで!?」
音速で振り下ろされる刃をぎりぎりで躱す。
「誰が可愛いだ!?」
「わお。口に出てたみたいね~(やばいっ)」
「避けるな!」
「無茶苦茶言うな!」
ところ変わって化学班研究室。
「……丸聞こえ、ね」
いくらこの施設の中央部分が吹き抜けとはいえワンフロア離れているはずなのに彼らの声はよく響いた。
コーヒー豆の分量を量りながらリナリーは困ったように眉を下げ、次いで口元に笑みを浮かべた。
先ほど会った際の
の様子が気にかかっていたが、この様子ならば大丈夫そうだとほっとした気持ちになる。
そのそばで、飲み干して空になったマグカップを片手に目元に隈を浮かべた男性が無精ひげの生えた顎をさすりながら呆れの声を漏らした。
「まったくあの二人が揃うと騒々しさが三〇〇%アップだな」
「あんなに元気ならすぐ別の任務に行って貰おうかな~」
「それはやめてあげて兄さん……」
その男性、リーバー班長の溜め息交じりの言葉に呼応するように呟かれた無慈悲な台詞に、リナリーは引き気味で制止の声をかけるしかできなかった。