飄々として掴みようがなくて。まるで空を流れる雲のようにしなやかで。
それでいて確固たる意志の強さを持つあなたにはきっと恐れるものなんてないのだと、私は単純に思ってしまっていたのです。
聖騎士団本部が置かれるここは、古の時代、巡礼の地として栄えた巨大な元・修道院である。
聖戦の勃発により、今から優に千年を越す昔に建築されたこの僧院は世界最大の戦力拠点となった。
この地が選ばれた理由は、歴史的なことはもとより、海岸線沿いで防衛に優れた要塞だったためである。
――話の舞台はその建物の中。
石造りの壁や床のお陰で、初夏だというのにひんやりとした空気が満ちている。
石柱の間からのぞく外の景色は一面の空色だった。
ギアとの死闘の最中だという事実も嘘のようだ。
私はそう考えてから、少し頭を振った。
過度に悲観する必要も楽観的になってよい理由もない。ただ迅速に的確に、必要に応じて守り戦うことを心に留め置かなければいけない――背筋を意識して伸ばし、回廊を足早に離れた。
少しして、団員の使用する食堂へと着いた。
木製の扉を押し開く。
飛び込んできたのは彼女の笑い顔だった。
十数人の男性団員らの輪の中で気負いする様子もなく、身振り手振りを交えて話をしている様子を眺める。
それに続いて笑い出すのは彼女の周りだけでなく、この場にいる全員が輪の中心の少女に注目していることがすぐにわかった。
ああ、貴女は本当に……
「あ、カイもお昼休憩~?」
入り口で立ち止まっていた私に気づき、
はテーブルに腰掛けたまま大きく手を振ってきた。
私はそれに小さく微笑んでから足を踏み出す。
「元気がいいのはよいことですが、またそんなところに座って……」
「行儀が悪いって?まあ、んな堅いこと言うなよ」
言って笑う彼女を見て、私は何故か先ほどの空を思い出した。
「息抜きは必要だよー?気の張り過ぎはよくないって」
うーと声を漏らしながら伸びをして、彼女は床に降りた。
そして私のほうに歩み寄り、
「実は
もまだ食べてないんだよね。
一緒していい?」
にへら、と緩んだ顔がなんだか可笑しかった。
「ええ、もちろんですよ」
私の快諾に気をよくしたようで、鼻歌を口ずさみながら隣をついてくる。
トレーを取りながら、今日のメニューはオムライスだと嬉しそうに教えてくれた。
さっきおばちゃんに聞いたんだ~、とうきうきとスキップまでしそうな勢いの
に、私は耐えられなくなって小さく噴出してしまった。
それに一瞬目を丸くしてから、気恥ずかし気にこちらを睨んでくる様子がまた可笑しくて、横隔膜の震えが止まりそうになくて少し困る。
「……なんだよ」
そう言いながらも私の笑っている理由はわかっているようで、少し口を尖らせている。
それがまた子供っぽくって笑いを誘う。
「いいじゃんよーオムライス」
「いい……ですけど……くくっ」
いよいよ腹筋が辛くなってきて、私は体をくの字に折り曲げた。
笑いはまだ止まらない。
「そんなに笑うな!恥ずかしくないのに恥ずかしくなる!」
小突くように脇腹を叩かれるが、手加減してくれているようで少しも痛くはない。
む~、と納得いかなそうに唸ってから、彼女はおもむろに駆け出した。
「そんな失礼なカイの分は残してやらないからな!」
「! 食堂では走らずに!」
「うるさい!笑い転げたお前の方が悪い!」
「ま……っ」
つるりん!
踏み出したその一歩目、え、と思う間にバランスを崩す。
「しまった……!」
なんともコミカルな効果音とともに私は床に転ばされてしまった。
足元を見れば氷が張っている。彼女の不意打ちの常套手段だが、まさかこんな場所で仕掛けてくるとは。
まんまと足を掬われたことに情けなさを感じるが、
は何故こうも無駄なところで能力を活かしてしまうのだろうかという呆れの方が大きい。
私はすぐに立ち上がり彼女の姿を視線で追うが、
はすでに厨房に駆け込んでしまったようだ。
ほんの数秒で一人前以上の食事をたいらげるなど常識で考えれば無茶苦茶であるが……彼女ならやる。
一度言ったことは意地でもやり抜くのが
という人物だという少しずれた信頼が確信を生んだ。
午後は実践訓練がある為できるならば昼食はとっておきたいところなのだが、もしかしたらそれは叶わないかもしれないな、などと半ば諦めの境地で厨房の入口へと向かう。
通常はカウンターで食事を受け取るのだが、彼女は厨房の人員に可愛がられていることもあり、衛生上問題ない部分までは厨房への立ち入りが暗黙で許されている。
それも人徳というのだろうか、食い意地の勝利というのだろうか、と思考を巡らせていると。
「……ぴぎゃああぁー!!」
「!?」
突然響いた尾を踏まれた猫のような悲鳴(なんて適切な表現だ)に、そこに向かっていた私だけでなく、その場にいた者のすべての視線が向けられた。
それが人の発したものだと数瞬遅れで気が付き、急いで中に駆け込む。
「何事ですっ!?」
一歩中に入り見たものは。
「……
さん?」
石化したように微動だにせず固まる彼女の後ろ姿だった。
「一体どうしたんですか?」
すぐに事故や怪我等の可能性を考えたがその様子はなく、何なら彼女以外は別段変わった様子はない。
ならばこの状況は何なのかと訝しみ、私は彼女のそばにいた料理長に問いかけた。
年配の女性、フランソワ料理長は先程の大音量を至近距離で食らってしまったらしく、耳を押さえ目を白黒させながら呟くように言った。
「お嬢が突然悲鳴を上げて……」
「えぇ??」
失礼かもしれないが、彼女は私の知る女性の中で一番強い。様々な意味でだ。
だから今言われたこと――彼女が悲鳴を上げた、ということが俄かには信じられなかった。
「な、何があったか分かる方はいますか?」
気を持ち直して再び聞いた。
しかし私の問いに厨房内の料理人たちは首を捻るばかりだった。
仕方がないので、私はいまだ硬直から戻らない彼女の肩を軽くゆすった。
「もしもし、大丈夫ですか?」
しかし反応する様子がない。
「何があったんです?」
「………」
無言だ。問い掛け方を変えてみようと、再度口を開く。
「……何かいたんですか?」
がば!!
「ちょ……っ!?」
「ややややややや奴が出やがった……!!」
気を持ち直したと思えば、突然
は私にしがみついてきた。
……震えている?
「サ、
さん落ち着いて!何が出たんです?」
ぎゅうっと力いっぱい腕を回してくるせいで体は密着状態である。
彼女の体温やにおいがダイレクトに伝わってきて心臓が跳ね上がったのも一瞬、更に力が込められどきどきする間もなく息苦しくなる。
「く、口に出すのもオゾマシイ……!」
言うなり締め付けは更にきつくなる。
正直抱きつかれているというよりも絞め技を掛けられている状態に近い。
このままではそれほど時間もかからずに落ちる。意識が。
力任せに外すことはできるだろうが、何かに怯えている様子の彼女に対してそんなことをできるはずもなく、打開策も思い浮かばず為されるがまま時が過ぎる。
既にこの時点で脳に酸素が回らなくなってきていたのか、外で囃し立てる団員たちを一喝する余裕さえなかった。
そして、聴覚が何かの音を拾った。
ぶぅ~~……ん
「ぴ……っ!」
「……っ!!」
黒光りする褐色の胴体に2本の生理的嫌悪感を抱かせる触覚。
かさかさと動き回るその姿は不気味以外の何事でもなく。
更には今、そいつは宙を飛んでいる。
「また来たああぁっ!!!」
不意打ち的な出現に、私の反応は一瞬遅れた。
ぴと。
……しーん。
あろうことか、奴は彼女の肩口に着地した。
思わずそれを凝視し、はっとしてから彼女の顔色を窺う。
「!!!!!!」
声にならない悲鳴を上げ、彼女はマッハの勢いでそれを振り払った。
「っわ!?」
当然、至近距離にいた私もそのとばっちりを受けたわけで。
どん!がしゃん!!
「痛……す、すみません」
厨房の職員を巻き添えにして、私は調理台へと突っ込んだ。
彼らを庇ったせいで背中を強かに打ち付けてしまい痛みが走るが、今はそれどころではない。
振り払われる寸前に見えた顔――あれは、戦場でしか見せない温度の消えた表情だった。
恐る恐るそちら向けば、
の足元にはひんやりとした冷気が生まれていた。
「
……?」
瞬間、力場が発生し、冷気が渦巻いた。
「ふ、ふふ……潰す……!!」
「駄目です
さん!!」
大声を上げて静止をかけるも、手遅れだった。
「うっらああぁ!!でぇすぃんじあふたぬあああぁ!!!」
――一撃死発動。
――そしてすべては凍った――
「気が、済みましたか……?」
髪の先にツララが見える。
気温も局地的に氷点下に達しているのではないだろうか。
寒さに震える私の声の先で、彼女はとても清々しい横顔をしていた。
「うん!すっきりさっぱり♪」
振り向いた表情も、晴れやかな満面の笑みだった。
「……それにしても相変わらず恐ろしいくらいの威力です……そして取り乱していたとは思えない制御力です……」
「ま、ざっとこんなもんよ!」
この威力の術式を極小の限定範囲で展開できるその技量は称賛に値するものだろう。
何せ器物の損壊はゼロだ。影響と言えば、一部の厨房職員が顔面蒼白で腰を抜かしていることくらいだろう。もちろん冷気の影響は一切受けていないので単純に恐怖や驚きによるものだ。
しかし何とも乱暴な手段であるあるという点は否定できない。
やり切った様子で腰に手を当てている
に何とも言えない視線を向ける。
「……きっとアレらも根こそぎ退治できたでしょうね」
「あたぼう! いくら奴らといえどもこのくらいやれば……」
――ひょこ。かさかさ。
「………」
「………」
「本日2発目いっきまーっす」
「やめてください!」
――かくして。どうにか彼女をその場から退出させ、即日施設の大掃除をしたことで事態は収まりました。
怖いものなしに思えた彼女にも天敵がいることを今回の件で知ることとなったのですが、もう二度と邂逅させてはいけないと胸に深く刻む結果となりました。
怯える様子は珍しく思えましたが、あのような過激な対処方法を毎回取られてしまっては周囲の身が持ちません。
人には意外な一面があるのだと、そう学んだということにしておきましょう。
意外といえばあの時――……いえ、これ以上は無用のようです。何故か背後に冷気を感じます。
――そして最後に。ご想像の通り、2人揃って昼食を食べはぐれたことだけ記しておきます。