Fortune favors the bold.
不規則な横揺れと縦揺れを感じ身動ぎする。
頭を傾けたからだろうか、前髪が一房額にかかりむず痒く感じていると、不意にそれが自分のものではない指にどけられた。
次いで頭を撫でられる。
そっと触れるようなそれがくすぐったくて首を引っ込めると、傍らで小さな笑い声がした気がした。
瞼が重い。
体がだるい。
腕と脚の傷が痛い。
その痛みを知覚した途端、意識が浮上してきた。
ガタゴトという揺れとリズミカルな蹄の音を耳が拾い、ここが馬車の中なのだと把握する。
どうして馬車に乗っているんだっけ、と考え、ようやっと瞼を持ち上げると。
「……目が覚めましたか……?」
あれ?カイがいる。
そうか、助かったのか。
「……よかった……」
カイが生きていて、よかった。
ふう、と呟きとともに安堵の息が漏れてから、違和感を覚えた。
それはもうさっき考えただろ、と。
――今度こそはっきりと覚醒した。
ぱちり。
瞬きをひとつ。
カイがいる。
目の前に。いや、真上に顔がある。
「……何この状況……」
「力を使い切って倒れたんですよ」
昔にもこんなことがありましたね、と笑みを浮かべながら言われ、いやそうではなくて、と抗議の視線を向けた。
喉がカスカスに乾燥している気がして落ち着かない。
「……何でカイを枕にしてんの」
「支えていないと馬車の揺れで転げ落ちてしまうかもしれないでしょう」
それはそうなんだろうけれど、と少し混乱した頭で考えながら体を起こそうとすると、やんわりとカイの膝の上へと押し戻される。
何故。
「起きたからもう大丈夫だよ」
「無理はしないで、今は休んでください」
静かに、しかし有無を言わせぬ迫力を含めて言われ、渋々大人しくする。
ちらりと自分の体を見下ろす。
傷はきちんと手当てしてあった。
それはいい。有り難い。しかし、着替えた覚えのない服を着ていることが気になった。
「……緊急時でしたので、ジェリーフィッシュ団に応急手当をしてもらいました。安心してください」
「あぁ……そっか、近くに飛空艇が来てたんだね」
の疑問を察したのか、カイが先回りするように答えを口にした。
あの場ではボロボロになった聖騎士団のコートを破り捨ててノースリーブとショートパンツのインナーだけでいたのだが、正直肌寒かった。
だから上着を着せられていることには感謝である。
元々着ていた服自体も洗ってある上に軽微な破れは繕ってくれたようで、だいぶマシになっている。
しかし両腕両足とも肌が見えないくらい包帯でぐるぐる巻きにされているのには内心首を傾げた。
そこまで酷い怪我だったっけ、と治療跡を見てやや大げさに感じてしまうがそのままにしておく他ないだろう。
これらの手当を行ってくれたジェリーフィッシュ快賊団。
あの場では気に留めなかったが、カイは彼らと知己である様子だった。
真面目なカイが義賊とはいえ犯罪者である彼らと、と意表を突かれた思いになるが、今は国際警察機構に属しているらしいし、その辺りで余りおおっぴらには出来ない事情でもあるのだろう。
そしてその空賊といえば、船長のジョニー以外のクルー全員が女性ということで有名だったなと記憶を掘り起こす。
そこで治療ついでに世話を焼いてもらったのだろう。
ローマとあの森と、戦闘続きで文字通りボロボロな姿だった
を見るに見かねてのことだろうが、その結果のこの服のチョイスについては多少意見が無くもない。
濃紺に白いラインのセーラー服のような見た目の丈の長いブルゾンは
には少しばかり可愛らし過ぎるのでは、と正直恥ずかしさを感じてしまうのだが、厚意は素直に受け取るべきだ、贅沢は言うまい。
服のことは一旦忘れることにし、次にディズィーのことを頭に思い浮かべた。
最後泣きそうだったな。ちゃんと声もかけられなかったし。
「ディズィーはジョニーさんの所に行くことに?」
「ええ、それで落ち着きました」
彼女の人とともに生きるという望みは、きっと彼らのいるところでならば叶うだろう。
次に会えたら、ディズィーとももっと話をしてみたい。
あの状況で出来うる最良の幕引きに落ち着いたようでよかった、と思いつつ、もう一つ気になっていたことを口に出す。
「あの、ソルと……」
「奴が、何か?」
あれ?あの場の感じでは二人の険悪な関係は修復されたんだなと思っていたのだが。
カイからその名は聞くだけで不快ですと言わんばかりのオーラが滲み出た気がして、言葉が尻すぼみになってしまう。
しかし聞いておかなければならない、と意を決して続きを口にする。
「ソルと一緒にいた人は……何者?」
その問いは予想外だったのか、カイは二度ほど瞬きをしてから言った。
「彼はアクセル=ロウといって、……機密事項ではありますが、時空転移体質の持ち主です」
「は?」
時空転移って言った?
そんな単語、人生で早々口や耳にする機会なんてないと思っていたけれど、今日一日でこんなに頻発するとは。
もしやそんなに珍しいことではないのか?
が知らなかっただけで。
それに体質って何。
アレルギーか。
「……
さん」
「うん?」
頭の中でぐるぐる考えを巡らせていると、不満げな声が降ってきた。
ぱ、と反射的にカイを見上げる。
――そこで、しまった、と自分の失敗に気が付いた。
目を覚まして話したことといえば、自分のことと、今さっきの出来事のことばかりで。
大事なことを言っていなかった。
途端に焦りだした胸の内を鎮めるように、ひとつ、呼吸を整える。
「……えっと、……遅くなって、ごめん」
「はい」
「……置いていって、ごめん」
「はい」
「……約束守らなくて、ごめん」
「……謝ってばかりじゃないですか」
そう言われても、悪いことをしたなと自覚しているわけで。
気まずくて、怪我をしていない右手で目元を隠そうとするがそれはカイの手で止められてしまう。
「謝って欲しいわけではないんです……謝られたら、私自身が惨めに思ってしまう。
だから、どうせなら、脳天気なくらい明るく、昔みたいにただいまと言ってくれませんか?」
能天気て。
即座にツッコミを入れかけるが、今はそれをしていい空気ではないことくらいわかる。
じっと見下ろされ、居たたまれなくも感じるが、それ以上に
の扱い方を心得ている物言いが可笑しくて、つい笑ってしまった。
「――ただいま」
「ええ……おかえりなさい、
」
優しい笑顔を向けられ、少し低くなったテノールの声で名を呼ばれ。
一瞬呆けた後に、かあ、と全身が熱を持ったように感じた。
いかん。
この体勢はいかん。色んな意味で。
「や、やっぱり起きる……!」
「駄目です。大人しくしなさい」
「いーやーだー!」
「何で急に暴れるんですか!」
何でもなにも、色々状況を整理して、思い出して、理解してきた今となっては……
――どば、と全身の毛穴から汗が吹き出る思いがした。
忘れていた。
ああそうだ、生死の境で必死で緊迫して切羽詰まっていたのだから無理もない、と誰にともなく釈明する。
今の今まで忘れていた。
あの時最後、自分がカイに結果的に何をしたか――自分が何を自覚したか――今この瞬間に思い出してしまった。
ドタドタと我ながら滑稽なほど騒ぎ立て、どうにかカイの上から退き、乱れてしまった呼吸を整えながらさり気なく距離を取る。
「み、水を……」
目を逸らしながら要求すれば、カイは意味がわからないといった風に溜め息をつき、しかしこちらの求めに応じるようにグラスに水を注いで渡してくれた。
それを受け取り中身をこくりと喉に流し込み、少し顔の熱が冷えた気がした。
今は夕方だろうか、車内が薄暗いおかげで助かった、と気付かれないように嘆息する。
「あまり動くとまた傷口が開きますよ」
まったく、と小言を言われるが、今
は自分の心を鎮めることで精一杯だ。
水のおかわりをもらい、3度ゆっくり呼吸をする。
そうしてようやく人心地がついた気がした。
ちらりと身の回りを見渡せば、今いる馬車の室内は6人掛けくらいの広さで座席の座り心地も良く質の高い造りだった。
起き上がったことで今
とカイは同じ側の座席の端と端に腰掛ける形となっている。
この距離感の不自然さについては今は触れたくない。
心を無理やり落ち着かせようとひと息ついてから視線を彷徨わせ、この馬車が乗り合いではなくチャーターであると気付く。
「……どこに向かってるの?」
「今は飛行場に向かっています。
そこから飛空艇でパリに戻ります」
「パリ……」
そうか、聖戦が終結して、聖騎士団は解体されたって話だものな。
カイの帰る先があの本部ではなくパリだと言われたことで、なんとはなしに物悲しい気分になる。
今海沿いにあったあの本部はどうなっているのだろうか。
聖騎士の皆はどうしているのだろう。
いつか戦いが終わったら故郷に帰って家の仕事を継ぎたいと言っていた仲間がいた。
別の仲間は戦う以外の形で世界に貢献していきたいと夢を語っていた。
聖戦が終わったら。
平和になったら。
そして現在、本当にそうなったのだとすれば皆それぞれの道へと進んでいったのだろう。
……ああ、おばちゃんのご飯がもう食べられないなんて悲しすぎる。
「
さん、今までどうしていたのか……いえ、どうしてあの時のまま、あの場所にいたんですか?
一体、貴女の身に何が起こったのか、話してもらえますか?」
そうだ。
はまだ肝心なことを話していなかったのだと言われて気が付いた。
つい混乱に流されて茶番劇のようなやり取りになってしまったが、実際は割と深刻な状況なのだ。
カイの方に向き直り、居住まいを正す。
荒唐無稽な話だけれど、と前置きをしてから、自分で聞き、知って、わかっていることを順を追って説明し始めた。
――長い沈黙。
カイは
の話をどう思ったのだろうか。
考え込むようにやや伏せられた彼のまつ毛が陰を作るのを見て、相変わらず密度が濃い上に長いなーなどと思考が脱線しかけていると、カイが口を開いた。
「――なるほど、あの場で原因不明の時空転移が発生した可能性が高いと……あの時は私も意識が朦朧としていましたから正しく記憶できていないのかもしれませんが、気付けなかった自分が情けないですね」
難しい顔をしつつもどこか得心した様子で何度か小さく頷く姿を見て、緊張しながら話したこちらが拍子抜けしてしまう。
「……信じるの?」
「ええ――そうであれば諸々のことにも納得がいきます」
この話のどこに納得できる要素があった?と逆にこちらが納得できない気分だった。
あの場から消えた形になる
はともかく、残った彼らには調査や分析やらをする時間はあっただろうから、もしかしたらその関係で何か思い当たっているのだろうか。
とは言っても、些か容易に受け入れ過ぎではないか。それとも
の頭に柔軟性がないだけなのか。
当事者の自分が一番事態を把握できていない気がしてきて、歯痒かった。
「順応早いね……
は何が何やら……」
「先程話題に上がった人物のせいでその手の話に耐性がついたのかもしれません」
「ああ、アクセルって人」
「しかし、彼は自分一人だけでしか移動できない上に自身でもコントロールが効かないようなので、彼があの場にいたからといって
さんに起きた事の原因ということはおそらくないでしょう」
「はぁ……その人も大変だねぇ」
「
さんも大変な状況ですよ」
「うん、大変過ぎて他人事みたいに感じてる」
あはは、と本日何度目かの乾いた笑いを零す。
カイから聞いた話では。
は作戦中に行方不明になったと処理されているらしいこと。
カイも、他の仲間も、長い間
のことを探してくれていたということ。
それを知り、嬉しさ反面、申し訳なさが胸の内に膨らんだ。
助けたい一心でした行動が、皆に迷惑をかけたのだ。
同じようなことを繰り返す自分の反省の無さに呆れる。
でも、結果としてカイを助けることができ、彼は聖戦を終結させた。
のしたことが無意味ではなかったのが、せめてもの救いだ。
知れず溜め息を漏らす。
何はともあれ、こうしてカイに事情を伝えられてよかった。
彼にしたって、自分を助けた人間がそのせいで行方不明になったというわけだから相当気に病んだだろう。
恨まれることも覚悟していたので、受け入れてもらえただけで十分だ。
なのだが――
「これからどうしよう」
ぽつり、と思わず落とした言葉にカイがえ?と反応する。
肩の荷がひとつ降りて、この後の事を考えなければいけないことに気が付いた。
窓の外の流れる景色を眺めながら続ける。
「戦争が終わって、聖騎士団も無くなって、いい事だけれど、そうしたら
はまた――」
帰る場所がもう無いというならば、その前までの生活に戻るのが普通だろう。
にとっての前とは、賞金稼ぎとして旅をしていた頃のこと。
だけれど、その自由なひとり旅に戻るということの現実味が薄かった。
聖騎士団にいた数ヵ月がひどく長いものだったように感じる。
旅を始めてからひとつどころに根を下ろして生活したのが初めてだったからだろうか。
いやそれとも――
その感覚を不思議に思いながら言葉を繋げていたせいで、
「しばらくはパリにいてはどうですか」
「え?」
不意に投げかけられた言葉に反射的に疑問符を浮かべてしまった。
「8年前に行方不明となった貴女が突然現れたら皆騒然とします」
「そんな、大げさな」
「大げさではありませんよ。皆でどれだけ探したと……いえこれは置いておくとして、時空転移は世間的には理論上の技術でしかないのです。過去から未来へ転移したと発覚すれば、無用な混乱を招きます」
「まあ言いたいことは分かるけどさ……だからって、どうしろと」
だいたい行方不明の人間が見付かったところで、普通は時空転移だなんて発想にはならないだろう。
精々が何故老けていないのか不思議がられる程度だと思うのだが。
何をそこまで心配しているのか、こういう心配症なところも相変わらずなのかと苦笑が漏れる。
「……少し時間はかかるかもしれませんが、手は打ちます。
それまでは家にいてください」
「手を打つって何をするつもり……」
うん?家?U-CHI?
「セキュリティに問題はありませんし、部屋数も十分ありますから」
「いや、何で突然そんな話になる?」
確かに旅の生活に戻るということを躊躇する気持ちはあったが、それはそれ、カイの家に厄介になるとかいう話とは別物である。
何故話題をすり替えるんだと抗議の意味で眉を顰める。
「一人で住むには広過ぎる家を用意されてしまって持て余していたんです。
これで活用できますね」
しかし向き合っているはずのカイは
の表情の変化など見えていないかのように話を進めていく。
おかしい。何で急に会話が成立しなくなる?
「待て。
はうんとは言っていな……」
「ちなみに、かつて聖騎士団本部の食堂に勤めていたフランソワ料理長が週2日家政婦として我が家の家事を行ってくれています」
「…………なん、だと……?」
その言葉の衝撃に、細めていた目を見開いた。
それは
の胃袋をがっちり掴んでしまったおばちゃんの名ではないか。
何?そのおばちゃんがカイの家の家事?へ?家政婦?お前そんないい生活してんの?週2日も美味しいご飯食べているの?いやいや、おばちゃんのことだから自分が不在の日の作り置き献立くらいお手のもののはずだ。毎日だ。こいつ、毎日おばちゃんの料理を堪能しているというのか!
「
さん、目が怖いです」
「おま……っ、それは贅沢過ぎるだろ……!」
「職務で不在のことも多いので、家の管理をお任せしているんです。
国際警察機構に移籍する際に彼女の住まいも近所ということが分かりまして、あちらから提案してくれたんですよ」
気が利く人で本当に助かっています、とカイがやたらと和やかに言う。
それに反して、
はわなわなと肩を震わせていた。
そんなことになっていたとは。
おばちゃんが元気なことは素直に嬉しい。
だが、これはカイの策略だ。
理由はイマイチ見えないが、この妙に強引な手法には覚えがある。
頭がいい癖に偶に脳筋な論法で主張を押し通す、彼の少ない悪癖だ。
わざわざこのタイミングでおばちゃんの話を持ち出すなど。
こいつの魂胆など分かりきっている。
見え透いた手を使ってくれるではないか。
しかし
はそう易々とは乗せられないぞ。
「――ところで、家に着いたら食べたいものはありますか?」
そのひと言で簡単に心がぐらついた。
「ぐ……っ!汚い手を……!」
だがしかし、ここで折れるわけには。
「
さんの好きなサーモンのパイ包みにしてもらいます?」
あの人の作るパイ生地とクリームの調和の取れた食感は絶妙ですからね、と朗らかにカイは言った。
ごくり。
今そいつの方を見てはいけないと警鐘が鳴り響いているというのに。
何だその今まさに料理を味わっているかのような満足げな顔は。
思い出しちゃうだろ。
おばちゃんの美味しい料理の数々が、頭に浮かんでしまうだろうが。
「……ああ、確か当時新しいスイーツを開発されていましたね。食べ損ねていたでしょう?それも用意してもらいましょうか」
……
…………
ちらり。
にこり。
「……………………キッシュと鶏肉のトマト煮も」
がっくりと座席に手を付き絵に描いたように項垂れる。
食欲に正直すぎる自分が本気で情けない。
自分の構造の単純さを再確認してしまい、人生最大級の自己嫌悪に陥る。
そしてついで記すなら。
目の前のカイが上機嫌なのが心底憎たらしい。
「いい性格になりやがって……」
苦し紛れに低音で嫌味を吐き捨てる。
しかしカイは余裕の笑みをたたえたまま、
「貴女が言った通り、成長しましたから」
ふふ、と至極楽しげに言い放つ。
本当に厄介ないい性格になったものだ。
「冗談はさておき、これからのことですが」
急に舵を切り直された。
もう彼の中ではこの話は終わり、
はカイの家を間借りすることが決定したようである。
優秀故に自信たっぷりに我を押し通す見た目によらぬ強引さも健在か。
はいはい、と半ば諦めの境地で話の続きを聞く為に姿勢を戻して座り直す。
「貴女にだから正直に言います。戦後、世界の情勢や内政は混沌としてしまっています。国連も1枚岩ではないことは各省庁で暗黙の内に認識されています。私の所属する国際警察機構も、治安の為の組織であるのに情報が全て降りてくるとは限らず、監視の目も多いというのが実情です。
……私の側にいることで、貴女のことも近い内に感付かれるでしょう。それでも、私の手の届く範囲にいてもらった方が、貴女を守れると考えています」
国連という組織の煩雑さや厄介さは賞金稼ぎをしていた頃から感じていたこともあり、別段驚きはしなかった。
しかし、戦後、ギアという表立った分かりやすい脅威が無くなった途端、そんな事態になるとは。
人間の業の深さといえばいいのか愚かしさといえばいいのか、呆れに近い思いを抱いてしまい、陰鬱とした気分になる。
招集されたことで不本意ながら顔が割れてしまっている分、目を付けられやすいことには覚悟が必要だ。
色々な思惑があって様々な形の利権争いをしている連中から見れば、8年前の行方不明者……要は
が以前と変わらぬ姿で突如として現れたことにあちらにとって都合のいい憶測や突拍子もない不条理さでちょっかいをかけてくる可能性があることは予想できる。
そうなった場合、矢面に立つのは立場的にもカイになるだろう。
かつてそうであったように。
そんな負担を、またわざわざ彼にかけていいものなのか。
やはり彼から離れた方が、どこか目の届きにくい場所へ行ってしまった方がいいのではないか。
考えながら、少しだけ目を伏せる。
……こういうことを、カイの足枷になることを恐れたからこそ、彼の手を取らない選択を
はした筈だろう。
なのに、何を流されそうになっている。
駄目だ。
そっちに行ってはいけないんだ――例えあの時より心が痛んだとしても。
顔に出さずにいられる自信がなく、髪で隠すように俯く。
しかし次の彼の言葉ですぐに顔を上げてしまった。
「貴女に伝えたいことがあると、戻ったら聞いてくれるという約束を覚えていますか?」
カイは真っ直ぐにこちらを見つめていた。
静かな、決意を宿した瞳で。
それは作戦開始の直前、飛空艇の司令官室で見たものと同じだった。
からすればつい数時間前の出来事だ。
でも――今目の前にいるカイにとっては8年も昔のことのはずだ。
それなのに、あの日、あの時と同じ目をどうして今も
に向けてくるんだ。
錯覚しそうになる。
置いていったくせに。
「……
は戻れなかった」
「いえ、戻ってきてくれました」
「勝手なことをして、約束を破った」
「
」
名前を呼ばないで。
折角立て直した決心が鈍ってしまう。
「貴女は今ここにいます。
私を探して、戻ろうとしてくれたんでしょう?」
「何を……」
言い当てられ、動揺からつい眉根を寄せてしまう。
何故確信したような言い方を――ディズィーか。
おそらく
が気を失っている間に何かしら話をしたのだろうと想像した。
「……それは、まだ作戦中だと思ったから、訳がわからない状況でもまず本部に帰還すべきだと判断したからだ」
我ながら苦し紛れすぎると心の中で自嘲する。
その間にも苦々しい思いがどんどん広がっていく。
「なら、結果として戻ってきたということになりますよね」
「何でさっきからそんなに強引なんだ」
無理のある言い逃れに重ねるように、更に無理のあることを返され。
湧き上がった苛つきにそんな台詞が口をついて出てしまった。
さっと視線を逸しかけて。
でもそれより早くカイに止められた。
「聞いて欲しいからです」
伏せようとした目に映った彼の表情は、今先程までの冷静なものとはがらりと変わっていた。
綺麗な顔を僅かに歪ませて、
の行動を阻むように強い視線を向けてくる。
「あの時の、8年前の話の続きを……貴女は約束を守ってくれるはずだと、ずっと信じて待っていたんです」
ずっと。
その言葉の重さに、体が動かなくなる。
といた時間など、彼にとっては8年も昔の1年にも満たないほんの僅かな時間のことだった筈なのに。
カイの目が細められる。
何か言わなければと得体の知れない焦燥感に襲われるが、言葉が出ない。
「
、お願いですから、もう二度と……ひとりでいいだなんて、言わないでください」
息を呑んだ。
あの夜に
が言った言葉だ。
彼を突き放す為に。
「今度こそ、私に貴女を守らせてください」
それなのに、カイは変わらなかった。
変わらず、そのままの想いを持ち続けてくれていたのだと伝わってきて。
同時に、自分がとんでもなく悪い人間に思えてしまった。
色んなことを間違った。
たくさん傷付けた。
何度も突き放した。
何年も、背負わせた。
そして今もまた逃げようとして。
それなのに。
カイは
のそばから離れなかった。
守ろうとしてくれた。
傷付けるのを怖がるなと言ってくれた。
そして何度も、手を伸ばしてくれる。
こんなにひどい奴なのに、どうして。
「貴女のいない8年間、ひとりにされたのは私の方なんですよ」
手を取られ、祈るように両手で握りしめられる。
触れたカイの手は記憶にあるより少し大きくて、温かかった。
「その間に、私は強くなりました。
いつか貴女が戻った時に、貴女に頼ってもらえるように、貴女が辛い思いをしないように」
じんわりと伝わってくる熱。
それにひどく心が揺さぶられた。
カイの手はこんなにしっかりしていただろうか。
声も、こんなに低い響きじゃなかったはずだ。
知っているはずなのに、知らない人のようで。
の知らない、8年という年月の長さを突きつけられた気がした。
それでも、これはカイだと、
があの時守ろうとして、傷付けて、置き去りにした――彼なのだと、心が辛いような嬉しいようなよく分からない苦しい声を上げる。
カイの片手がこちらに伸びてきて、頬に触れた。
包み込むように優しく触れてくる指先がそっと目尻をなぞる。
「……今ならば、私は貴女から答えをもらえますか?」
正面から射抜かれた。
真摯な青緑の眼差しを受け、もう逃げられないと悟る。
カイの手が触れているのは一部分だけなのに、体全体が絡めとられたように動けない。
じりじりと焦燥のような震えのようなものが内側に広がっていく。
顔に触れる手は、見た目の細さに反して節々は硬質で少し荒れていて、彼の歩んできた道程の凄絶さを物語っていた。
――頑張り続ける彼の助けになるべきだった。
――もっとそばにいたかった。
そう思ったら自然とその手に顔を寄せていた。
――今からでも遅くないだろうか。
――差し伸ばされたこの手が、愛おしくてたまらない。
途端、握られている手が力強く引かれた。
希うように、親指が唇に触れる。
至近距離で見つめてくる目は、確かな熱を帯びていて。
びり、と体に微弱な電流が走ったような気がした。
「……後悔しない?」
絞り出した声は余りにも弱々しくて。
まだ自分は怖がっているのだと自覚させられる。
握る手に力が込められる。
「するはずがありません」
はっきりと言い切られてしまい、う、と今更ながら怯む気持ちが生じてくる。
結局のところ、
の意気地の無さがすべてを拗らせてきたのだとここに至って気が付かされた。
あの時カイの手を取れなかったのも、今また逃げようとしたのも、
の弱さが原因だったのだ。
それを自覚した途端、ふっと肩から力が抜けた。
彼に迷惑をかけないように立ち回ったつもりだったが、単に自分が傷付くことを恐れていただけだったのだと解ってしまった。
カイから向けられる想いと、たぶん同じ種類のものをずっと前から持ち始めていたのに、知らないふりをして。
本当は、
にもっと勇気があれば、彼を信じることができた。
そうしたらもっと早く、答えを出せたのに――
掠れる声で言葉を紡ぐ。
「……待たせて、ごめん」
「……はい」
先ほどと同じ言葉だが、意味は違う。
ちゃんと伝えなくてはいけない。
自分は待たせた。ずっと。
彼は待っていてくれた。ずっと。
恐る恐る、重ねられた手を握り返す。
その意味を察したカイが、泣きそうな笑みを浮かべる。
彼の目に映る
もきっと同じような顔をしているだろう。
「……貴女が好きです、
」
「……うん」
「貴女の隣にいさせてください」
「……うん」
一言ごとにカイの顔が近付いてきて、鼻先が触れそうな距離で止まる。
するりと頬が撫でられ、
「愛しています、
」
うん、と返事をする前に、唇が塞がれた。
気を譲渡する為にしたあの時とはまったく違う甘い感触にまた胸が苦しくなる。
柔らかくて、熱くて、押し付けられた彼の唇は自分のものよりもひと回り大きいのだと初めて知った。
長く続くそれに頭がくらくらとしてくる。
息苦しくて自分から唇を離し、はふ、と息を付くと、先程よりカイがこちらに身を乗り出しているのに気が付いた。
え、と思った時には上を向かされ再び口付けられて、今度は握られていたはずの手が、腕がいつの間にか背中に回っていて、ぐい、と持ち上げるように引き寄せられる。
頬を撫でていた手は耳の後ろあたりからしっかり後頭部に添えられていて身動きができない。
力が込められたことで上体がカイの胸に密着し少し背中が反ったせいで自然に口が開いてしまい、は、と短く息が漏れる。
それが異様に恥ずかしく感じて怪我をしていない右手でカイの肩を押し戻そうとするが、上から覆いかぶさるように
を押さえ付ける彼の体はびくともしない。
いきなりの展開に、酸素が足りなくなってきた頭は空回りを続けるだけだ。
合わせるだけだった唇が次第に吸い付くようになり、舌で下唇をなぞられる。
ぞわぞわ、と感じたことのない震えのようなものが背筋を駆け上がり、思わず身体を縮こまらせた。
そこでふっと拘束が緩められる。
唇が離れると、全力で走った後みたいに乱れた呼吸で酸素を取り込もうと口を開く。
「……もう一度」
熱に浮かされるとはこのことだと言わんばかりの声色で迫ってくるカイに、う、と若干顔を引き攣らせ、無意味に後退りしようとする。
しかし、きつく抱き締められていたのが緩められただけなので実際は少しも逃げられていない。
捕食される生き物もこんな心持ちで最後を迎えるのかもしれない。
益体もない考えが頭を掠める。
また違う角度で食むように重ねられた唇は先程より熱く感じて、他人の体温ってこんなに高く感じるんだ、と少し見当違いなことを考えてしまう。
すり、と後頭部に添えられていた手の指先が耳朶に触れ、ピアスが揺れたのを感じた。
ばくばくとうるさく響く心臓に目眩すら感じ出す。
――すると次の瞬間、唇の感触がなくなりふわりと体が浮き上がった感じがし、あ、また貧血かな、といつの間にか固く閉じていた目をそっと開けると。
すっぽりとカイの膝の上に横向きで抱き込まれていた。
どうやら身構えている内に持ち上げられたらしい。
今度は何。
次から次への展開に抵抗する間もなく、はくはくと言葉を空振りするように口を動かすことしかできなかった。
少し見下ろす位置から見たカイは、薄っすらと目元を紅潮させてはいたが随分と涼しい顔をしている。
その自分とはあまりに違う様子が妙に腹立たしくて、ふい、と顔を背けた。
だが彼にはその行動すら楽しいようで、くつくつと小さく笑い声を立てている。
余裕な態度が非常に癇に障る。
「8年のお預けの代償ですよ」
「……物騒なこと言うな」
「そんなに拗ねないでください。可愛いだけですよ」
「……ムカつく……すげームカつく……」
ひどいですね、とまたも笑いまじりで言われ、恥ずかしさと苛つきで頭が沸騰しそうだ。
そうやってひとしきりいじけていると、肩口にカイが頭をもたげてきた。
「本当にひどい仕打ちでしたよ、あれは」
おそらく、ローマでの最後のやり取りのことを言っているのだろうとすぐに分かった。
この体勢はまったく落ち着かないのだが、ぐっと堪えて次の言葉を待つ。
「生きる為に戦えだの、死ぬ気でだなんて考えるなだの、残される側の気持ちも考えろだの、本当にもう、どの口が言ったんだと怒りすら覚えましたよ」
途端に恨みがましくなった声に、申し訳ございませんとしか返せない。
フラグ回収し過ぎだろ自分、と呆れと共に恥じ入る気持ちになる。
「あまつさえ、最後……あんなことをしていなくなるとか……っ」
ぎゅうと回された腕に力がこもる。
やっぱり覚えていたか。
あの時はどうにかカイを助けなければと思って、ああするしかなかった訳で……
「悪夢過ぎます……」
何かに耐えるように、彼の身体は注意してやっと気が付けるくらいに小さく震えていた。
自分でやらかしておきながら、トラウマものだよな、と遅すぎる後悔が胸に広がる。
「本当、ごめん」
もぞ、と頭が動き、前髪の間からそれこそ拗ねた目が
を見上げてきた。
顔つきも体も大人になったようなのに、その仕草はだいぶ子供っぽかった。
思わずよしよしと頭を撫でると。
「……分かっているとは思いますが、私はもう貴女より年上ですからね」
「それなぁ……慣れるのに時間かかりそう」
思い返せば何度かこうして抱きしめられたことはあったが、その頃と今とで感覚が違うのは単純に体の成長によるものなのだろう。
こんなに簡単に抱きすくめられる程の体格差などなかった筈なのに。
むむむ、と何だか面白くないという感情が生まれてきて、苛立ち紛れに撫でていた髪をくしゃくしゃっと掻き混ぜた。
「ちょ、止めてください」
「なんかムカつく」
「何でですか」
「何ででも、だ」
不満げな声が上がるが封殺する。
見た目よりハリコシのある金糸が乱れても損なわれることのない容姿の端麗さは、いっそ呆れを感じてしまう。
そう思いながら跳ねた髪を今度は撫で付ける。
「……ところで下ろし
「嫌です」
即答かい。
放すどころか更に堅固に腕を回されてしまい、どうしたものかと困ってしまう。
無意識にもう一度頭を撫でる。
「子供扱いはしないでください」
「子供扱いしているわけじゃないよ。
相変わらずかわいいなぁと思って」
「かわいいなどと言われたくありません」
むすっと不機嫌を顕に半眼になるカイを見ながら、そういうところだよと言葉に出そうになるが止めておいた。
その代わり。
「嘘だよ。格好良くなったよ」
「……え……」
言ってから、ああ違和感の正体はこれだと判明した気分になった。
綺麗とか美形とかは今までも思ってきたが、格好良いという感想は今初めて持ったと気付いた。
背が伸び切って、顔つきも大人になって、年齢のせいだけじゃなくあの頃と何か違うと思っていた原因はそれだったようだ。
ひとり得心した面持ちで考察していると。
ぼぼぼぼ、と効果音を付けたくなるくらいの勢いでカイが顔を真っ赤にしていた。
え、あんなことしておいてここで照れるの?
格好良くなったとは言ったが、今の様子は可愛いそのものだぞ、とどこか微笑ましい気持ちになる。
ひとしきり狼狽するカイを見たおかげで、ようやく
も平常心を取り戻せてきた気がした。
気を取り直してもう一度要求を試みる。
「じゃあそろそろ下ろし
「嫌です」
またもやきっぱりと断られてしまった。
そしてカイはまた肩口に、今度は額を押し付けてくる。
変なところで強情なのも変わらないな、と仕方がないので脱出することは諦めることにする。
「……やっと貴女を捕まえられたんです。
もう少しこのままいさせてください」
「重いだろ」
「……むしろ思っていたより軽くて戸惑っています」
「うぇ?」
は体を鍛えていることもあって見た目より重い自信がある。
それを軽いなどと評されるとは予想しておらず素っ頓狂な声が出てしまう。
「
さんはこんなに小さかったんですね」
「いや、世間一般では中の上くらいのサイズ感だと思うぞ?」
の身長は平均より高めだ。その意味であれば小さくはない。
だがもし女子力的な身体サイズのことを指しているのだとしたら、カイの表現が的確であろう。まさか彼に限ってそんなことを口に出すとは思わないのでその可能性は消しておくが。
そこで一旦会話が途切れたのでふと窓の外に視線を移す。
カイの頭越しに見る空は夕焼けに闇色が混じりはじめている。
さっきカイは夜行便に乗ると言っていたなと思い出す。
市街地は通らず飛行場に直行するつもりなのだろう、建物の影は進行方向とは違う方角に並んで見えている。
ちらとカイを見下ろす。
……格好良いんだよな、実際。
不意に国連本部での最後の夜の様子が思い出された。
パーティー会場で感嘆の息を漏らされ、視線を集めていた彼は、きっとあの頃から格好良かったのだろう。
がそう見ることができていなかっただけで。
考え出し、またもや居心地が悪くなってきた。
自分の節穴加減と今更ながらの羞恥心に顔が熱くなる。
これではカイのことを笑えない。
今まで逃げ続けてきたツケが回ってきたのだと受け入れる他ないのだろうが、その覚悟によって恥ずかしさが消えるわけではない。
そうこう考えている内に、不意にガタンと馬車が大きく揺れた。
おっと、とバランスを崩さないように腹に力を入れたのがいけなかったのか。
ぐううぅぅ~……
「……」
「……」
「頼むから無言で目を逸らさないでくれ。傷付く」
「……飛行場に着いたら食事にしましょう。
夜行便の出発まで時間がありますから」
「大賛成」
一拍後、お互い可笑しくなって笑い出す。
こういう空気の方が性に合っているなと、あの頃のように笑いあえたことが無性に懐かしく感じられた。
カイの腕が腰回りをがっちりホールドしていることは今は気にしないでおこう。
あまり深く考え出すと恥ずかしさで死んでしまう気がする。
違うことを考えよう。
飛行場までは後どれくらいだろうか。
窓の向こうでは闇色が濃くなりはじめている。
これくらいの時刻、西の空に時期によって現れる一際明るい星は金星なのだと最近知った。
いつも見ていたものでも、それぞれを知っていたとしても、二つが結びついていなかっただけで、
は随分前からそれという存在を知っていたのだ。
そこから上の方に視線を滑らせると、すぐ側に細い月が寄り添うように浮かんでいた。
「
」
呼ばれて振り向くと。
「おかえりなさい、
」
青緑の瞳に迎え入れられた。
そこに浮かぶ溢れるほどの優しさは自分に向けられている。
それに言い表せない感情が込み上げてきて、そんな感覚が不思議で、でも不快じゃなくて、自然と顔が緩んでしまう。
「ただいま、カイ」
答えればまた抱きしめられる。
恥ずかしい気持ちもあるが、自分を包むその温もりは心地良かった。
またカイに会えて、良かった。
あれが最後じゃなくて、本当に良かった。
そう思えただけで、後悔も、それより前のいくつもの間違いも、少しだけ救われた気がする。
――結局、
に起きた事の詳細は分からない。
――ただ
はあの場で死なず、生きたまま、気が付けば8年後の世界にいた――その事実しか、分からない。
疑問も謎も尽きない状態だが、今は。
この温かく優しい幸福感に包まれていたかった――
Epilogue
そこには色彩がなかった。もしくは光が光としか存在せず、色という概念が存在しなかった。
便宜的に人の目というフィルタをかけた場合で表現するならば、その空間は一面が真っ白だった。
その奥地、人が存在しないはずのその場所で、何かを眺める男女がいた。
「イレギュラーはイレギュラーらしく退場させるべきだったのでは?」
男の声は抑揚なく事務的だった。
「このフェスの演出を任されたのは私よ」
女の声には楽しげなものが混じっていた。
「意味が分かりませんね。彼が何と言うか」
「許可は取ったわよ。あくまで可能性を消さない範囲でとの仰せはあったけれど」
「これで消えていないと?」
「消えないわよ。世界はそうやって出来ている」
がたり。
女はいつの間にかそこにあった椅子に乱雑に腰掛けた。
男の知らぬことを女は知っていた。
持つものだけが知る、世界のかたちの在り方だった。
世界とは時間と空間と精神であり、可能性の連続であり、点が繋がって線となっている不可視でありながら可視化された情報の羅列だ。
しかし線は一本とは限らない。
二本あるかもしれないし、千も万もあるかもしれない。
G線上の世界の隣にD線上の世界が存在する可能性はゼロではないし確実でもない。
人が感知しうる世界とは非常に曖昧で局部的なものなのだと、女は知っていた。
だから、誰かが気まぐれに新しい線を拵えたところで、世界そのものは変わらない。
「こっちはこっちで楽しめればそれでいいじゃない」
女の声に男は眉を寄せたようだった。
しかしそれを女が見とめる前に、男は頭を垂れた。
「あらお早いお帰りで」
「うん、ただいま」
第三者が現れた。
年若い男の声だった。
「こんな感じでいかがかしら?」
「……そうだね、この件については僕にも責任のあることだから、これでいいと思っている」
その言葉が意外だったように男が下げていた頭をそっと上げた。
何か言いたげな男に、第三者は口元に微笑を浮かべた。
「いいんだ、計画には支障ない」
「流石、話の分かるお方だわ」
女の軽口を咎めるように男はそちらを睨めつけ、女も応戦するように獰猛な笑みを唇に乗せた。
その間に、空いている椅子に第三者も腰掛ける。
そして二人が冒頭で眺めていたそれを同じように見つめた。
その先に見えるものに、笑みを深くする――が、その表情は次第に暗くなっていった。
「君達は……」
第三者が口にした主語が自分たちのことだと認識した二人は睨み合いをやめてそちらを振り向いた。
「……いや、何でもない。この映像はまた必要な時に呼び出そう」
言って、第三者は頭を振った。
その人物にしては珍しい歯切れの悪さを訝りながら、二人は睨み合っていたことを忘れたように顔を見合わせた。
第三者がカーテンを引くように手を翳すと。
映し出されていた少女の姿が音を立てずに掻き消えた――